>  > 画家・ジョット・ディ・ボンドーネ

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――絵描で作家・漫画家、旅人でもある小暮満寿雄が世界のアートのコネタ・裏話をお届けする!

 年も押してきたこの時期、今日はひとつクリスマスにちなんだ絵を紹介しよう。まずは、こちらの1枚をご覧いただきたい。

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ジョットの「東方三博士の礼拝」

 キリストがユダヤの地ベツレヘムで生誕した際に、東の方から賢人たちが訪れたという「マタイ福音書」による壁画作品だ。厩舎と思われる屋根の上に、不思議な球体が尾を引いているのをご覧あれ。

 そう、夜空を横切るこの星こそ、ジョットが活躍していた1301年にやってきたハレー彗星なのだ。

 それにしても、彗星というのは実に不思議な存在だ。氷と塵の塊だというのに惑星と惑星の間を短いもので3年、長いもので数100万年という周期でまわっては太陽に近づいていく。氷のカタマリが数100万年も溶けずに宇宙空間を公転してるというのは、とても素人には理解しがたいことだが、中には先日話題になったアイソン彗星のように太陽に接近し過ぎて消えてしまうものもある。アイソン彗星の消滅に失望した人も多かったと思うが、見方を変えれば、数万年、数億年に一度という機会に遭遇したともいえなくもないのだが……。

 ちなみに1986年、ハレー彗星の観測用に打ち上げられた探査機の名はジョット。もちろん、この壁画にちなんで命名されたものなのだ(カミカゼ計画とも呼ばれたが、この名はのちに使われなくなった)。

 ハレー彗星の公転は75.3年周期だから、普通に長生きできれば一生に1回は見られることになる。運が良ければ2回遭遇できるというわけだ。ジョットは自らは見たハレー彗星を絵の中に描いてみせたのだが、実はキリスト生誕時の時に輝いたという「ベツレヘムの星」も、同じハレー彗星ではないかという説がある。

 新約聖書の中の「マタイによる福音書」には、キリストの生誕時に東方三博士が訪れた様子をこのように記している。

「ヘロデ王の代にイエスがユダヤのベツレヘムで生れた時、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った。『ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました』」

 ところが、キリストが生まれた紀元1年だとしたら、ハレー彗星の周期と計算が合わず、まったく割り切れない数字が出てくるではないか。つまり紀元1年にハレー彗星は姿をあらわしてないということなのだ。

 やはり、ベツレヘムの星というのは別の彗星か、それともただの流星か何かか?

 いやいや、そうじゃない。

 「ハレー彗星」は紀元前12年に姿をあらわしており、ある学説ではそれを「ベツレヘムの星」だというのだ。

 そもそもキリストの生誕がいつだったかはもちろん、彼ががどんな人だったかも、事実はほとんどわかっていない(おっと、クリスチャンの人が読んでいたら失礼。キリストは人じゃなくって神の子だったんだよね。ただ、マリアが聖霊によってイエスをみごもる、セックスなし懐妊は、生物学的にちと無理が…?)

 イエスがこの世にいたことは間違いないようだが、紀元1年12月25日に生まれたのでないことは間違いない。

 ヨーロッパにおいて、原初のクリスマスはケルト民族やゲルマン民族が冬至を神聖視して祝うお祭りだった。おそらくはローマ帝国がキリスト教を国教にした時、領土にしていた民のお祭りとキリスト教を結びつけたのだろう。他民族の統治には、そこの部族や民族の宗教を取り入れるのが効果的なのをローマは熟知していたのである。

 実際の冬至は12月22日頃だが、当時の天文技術では何らかのズレが生まれたのだろう。


■ジョットという現実主義者の絵描き

 ジョットといえば、何といってもイタリア・アッシジのサン・フランチェスコ教会(1997年の地震で崩壊。その後日本の援助もあって再建)が有名だが、最も芸術的にすぐれていると言われるのは、この「東方三博士の礼拝」が描かれている、ヴェネチア近郊の町パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂だろう。

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スクロヴェーニ礼拝堂

 これは当時、パドヴァの大商人だったエンリコ・スクロヴェーニが自宅の横に建てた礼拝堂だ。自宅の横にこんなものを建てるとは畏れ入った財力だが、実はこの礼拝堂…高利貸しだった父の贖罪に建てたものだった。エンリコの父・レジナルドは、ダンテの「神曲・地獄編」に登場し、地獄の劫火に焼かれるという悪名高い高利貸しだったそうだ。

 エンリコは幼い頃から半沢直樹のお父さんよろしく、レジナルドにすがりついて土下座する人たちを見てきたのだろう。スクロヴェーニ礼拝堂はそんな父の贖罪のため、当時名高かったジョットに内装のすべてをまかせて作らせたものだった。

 ここで目を惹くのは天井をはじめふんだんに用いられたラピスラズリの青だ。ラピスラズリは現在のアフガニスタン原産の宝石を砕いて顔料に用いたという、金より高い世界一ゴージャスな絵の具で、現在は入手困難になっているが、その美しさたるたるや、いや、まさにアドリア海のアズール(青)だ。本物を見ない限り、その美しさを伝えらえないのが残念。まさに、これを見るためだけにイタリアに行く価値があると言っても良いだろう。

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 リューベンスやフェルメールが用いたことでも知られるラピスラズリだが、この礼拝堂ほど惜しげもなく、しかも美しく用いた例はない。パトロンだったエンリコは、もちろん父の贖罪もあったろうが、自分のステータスもあって金より高価なラピスラズリをジョットに提供したという。

 そんな高価な材料を使うためには、画家自身が社会的な成功をおさめているのが絶対条件で、ジョットもまた経済的社会的に成功をおさめた画家だった。

 のちに世界最初の銀行を作ったメディチ家が台頭してきたフィレンツェでは、画家といえども現実を冷静に把握し、分析して対応できなければならなかった。何でもそうだが、商人の能力も絵描きに求められたということなのだ。

 芸術家がリアリストで世渡り上手であると、とかく揶揄されがちなものだが、画家が建築家やプロデューサーを兼ねていた時代に、そういう能力は不可欠だったわけで、ジョットはその点申し分のない現実主義者だった。

 ジョットがリアリストだった一面を伝えるのに、こんなエピソードがある。ジョットの友だちが、彼の描いている性星像の前でこう尋ねたという。

「なんでヨセフ(マリアの夫)を、こんな悲しそうに描くんだい?」

「そりゃそうさ。女房のお腹にいる子どもが誰の子だか、わからないんだもの」

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ひざまずいている男が、パトロンのエンリコ・スクロヴェーニ

■小暮満寿雄(こぐれ・ますお)
1986年多摩美術大学院修了。教員生活を経たのち、1988年よりインド、トルコ、ヨーロッパ方面を周遊。現在は著作や絵画の制作を中心に活動を行い、年に1回ほどのペースで個展を開催している。著書に『堪能ルーヴル―半日で観るヨーロッパ絵画のエッセンス』(まどか出版)、『みなしご王子 インドのアチャールくん』(情報センター出版局)がある。
・HP「小暮満寿雄ArtGallery
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