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 宮内庁内部では、出産直後から第二子の期待が高まり、当時の湯浅利夫宮内庁長官も会見で「やはりもう一人はほしい」と発言。雅子妃の意向に反して早期の公務復帰を決めた。しかし、愛子内親王の子育てに時間をさきたい雅子妃はこれに強い不満をもっており、林田英樹東宮大夫とこんな驚くべきやりとりをしていたことを同書は明かしている。

〈雅子妃はそれまでも、過密な公務の日程について、何度も林田東宮大夫に訴えてきたという。だが、聞き入れてもらえないことから、〇二年頃に「これでは皇太子を辞めなくてはなりませんね」と語ったことがあったそうだ。言葉だけを取りだせば衝撃的だが、信頼できるはずの大夫に、内々に、なかなか聞き入れてもらえない公務委の軽減を訴えている文脈の中での発言だったのが実際だった。〉

 そして、2003年10月15日、決定的な事件が起きる。メキシコのフォックス大統領夫妻を迎えての宮中晩餐会でのこと。この晩餐会では主催の両殿下から皇族方が順番に紹介されるのが儀礼となっていた。しかし−−−−。

「まず燕尾服姿の皇太子を紹介されて、次はイブニングドレス姿の雅子妃の番でした。フォックス大統領が雅子妃に向って手を差し出されたのですが、隣の秋篠宮殿下が紹介されたため、一瞬、大統領の手が宙で迷われ、おかしな雰囲気でした。雅子妃は明らかに引きつったようなご表情でした」(元東宮職)

 そう、雅子妃は妃殿下として紹介されず、スルーされてしまったというのだ。このことが雅子妃から自信を喪失させ、その後11年間、雅子妃は宮中晩餐会に出席することはなかったという。

 同書は東宮御所に戻った雅子妃の心境を「宮内庁関係者」のコメントという形で、次のように解説している。

「ご誕生されたお子さま女の子だったことから、男子を産めない皇太子妃は必要ないというように思われたようです。(中略)雅子妃殿下は皇統の重要性を考えると、もっと頑張らなくてはいけないと思われていた。けれども深い失意は、ご自分を責める方向に向かわせたと言われています」

 そして、この直後から雅子妃は体調に変調をきたしはじめ、03年12月、帯状疱疹で入院。休養が発表される。そして04年の適応障害、皇太子の「人格否定発言」に繋がっていったと著者は分析している。

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コメント

1:匿名2018年5月17日 08:48 | 返信

なるほど。そういう事か。
雅子妃の馴染まない(嫁として媚びない)行動と
宮内庁のド田舎体質が、今の不協和音を生んだと。

なんてーか、宮内庁があまりに大人げないというか
田舎臭いというか・・
地味な嫌がらせをチクチクやっていた雰囲気が伺えるな。

雅子妃にも、皇室の田舎臭さを利用して
上手に煽てて媚びて持ち上げる努力が足りなかった様子もあるが…
紀子様みたいに上手に媚びることができれば、まだ多少はマシだったろうね。
(それでも、男児ができなかった時点で宮内庁の態度は想像できるが。)
それにしても、宮内庁は馬鹿をやりすぎた。
公務で妃として紹介をしないなんて、ホスト国にまで迷惑をかけるとはね。

しかも、肝心の皇太子の方に問題があったなら尚のことだ。
国民には広く知らせずに、雅子妃ばかりに非があると公に思わせている。
最低だな。
小室と秋篠宮家の問題が起きて、今になって雅子妃を持ち上げた記事を書かせているが
もはや手遅れだよ。馬鹿な宮内庁だ。

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