『1849年に中国から来日した時の音吉の肖像と1837年に三浦半島・城ヶ島に来航したアメリカ船モリソン号』

1867年1月18日は、江戸時代、尾張国知多郡小野浦(現愛知県知多郡美浜町)産まれの船乗りであり、1832年に遭難し、14カ月をかけてアメリカ西海岸のオリンピック半島にまでに流れ着き、イギリス、マカオ、上海、シンガポールと世界各国を転々とした漂流民となった音吉が死亡した日である。
アメリカで奴隷として使用された後に日本人では最も早くイギリスの地を踏み、マカオで日本語訳聖書『ギュツラフ訳聖書』の編纂にも携わるなどして1837年にようやくモリソン号に乗り、マカオから帰国の途に就いたものの、当時の日本の強行的外交政策により砲撃の標的とされ、追い返されることとなる(モリソン号事件)。
その後上海で商業的に成功し家族を持った音吉はアヘン戦争に英国人兵士として参加するなど、日本国外でその生活基盤を築いていき、やがてジョン・マシュー・オトソン (John Matthew Ottoson)を名乗りイギリスに帰化した。
晩年はシンガポールで死亡したが、“帰国”というごく自然にもほどがある夢をその息子に託して亡くなっていったという。
ちなみに、息子のジョン・W・オトソンは1879年に日本へ帰国したが、帰化申請は通らず、やがて台湾に移り住んだという。
果たして、当時としてはあり得ないほど広範囲に世界各国で活躍した彼の人生は、不幸であったといえるのであろうか。

(画像はWikipedia Otokichi より使用。Public Domain)

1月18日の不幸

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