『デレク・ジャーマン最後の監督作品「Blue」のイメージ』

1994年2月19日は映画監督のデレク・ジャーマンがエイズの合併症により死亡した日である。
1974年の『In the Shadow of the Sun』でデビューし、1980年代はPetshop Boysやthe Smithらのミュージックビデオ等を制作したことでも知られる実験的な映画監督であったデレクはまた、1986年にHIVウィルスに感染して以来、その事実と自らのゲイであるというセクシュアリティを公表し、社会的な発言をしてきた人物としても知られている。さらには、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の直後にイギリス南部のケントにあるダンジェネスという原発施設の危険区域内のコテージに引っ越し、終生をそこで送ったことでも知られている。
自らの映画作品も『セバスティアン』『ザ・ガーデン』のように同性愛をテーマにした作品が多く、最後の作品となった『Blue』も同性愛とHIVをテーマにした作品であるが、何よりの特徴は74分間という長編映画でありながら画面は終始真っ青のままであることである。
同作品の製作時期はエイズによる合併症でほとんど視力を失っていたということも関係しているという説もあるが、作品は全編通じてこのような青い画面のまま、ナレーションとBGMによってのみ展開してゆく。
では、なぜ青だったのか? デレクが愛していたという画家のイヴ・クラインの青に啓発されたという説がよく語られているが、死後の2013年にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのデイヴィッド・ジェムズらが発表した、「生物が死ぬ際に青い光を放つ」という科学的な研究成果にその理由を見出すものも出てきている。
果たして、死ぬ間際のデレク・ジャーマンは青い光を見ていたのだろうか?
それは誰にもわからないが、死にゆくエイズ患者がエイズによる死という恐怖を淡々と描ききった『Blue』が、映画史に残る美しさを湛えていることは明らかである。

(画像はWikipedia Blue (1993 film)より使用。Public Domain)

2月19日の不幸

1年
準備中
1292年
【死去】クビライ(Qubilai)【皇帝/モンゴル】モンゴル帝国の第5代皇帝(モンゴルハーン)。帝国の中心をカラコルムから中国の大都に移動させるなど様々な改革を打ち出したが、その在位中は内紛が耐えない治世となった。大都宮城の紫檀殿で病死。没年88歳。
1939年
【死去】岡本かの子【小説家・家人】芸術家・岡本太郎の実母として知られる小説家。17歳の頃に与謝野晶子を訪ね新詩社の同人として『明星』『スバル』等で大貫可能子名義で新体詩・和歌を発表していたが19歳の頃に知り合った漫画家の岡本一平と21歳で結婚し、長男太郎を出産。その後は一平との家庭内不和などもあり精神科に入院。退院後は早稲田大学学生の堀切茂雄を同居人として一平に認めさせ、複雑な家庭生活を続けた。晩年の1936年に『鶴は病みき』を発表し本格的な小説家活動を開始。(つづく)
1972年
【テロ】「浅間山荘事件」新左翼組織「連合赤軍」のメンバー5名(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)が管理人の妻牟田泰子を人質に軽井沢の浅間山荘に立てこもる「あさま山荘事件」が発生。警察が包囲する中、人質の監禁は219時間にも及び、警察が包囲する中で日本最長の事件となった。極寒の状況でテレビ中継されたことでも国民的な注目を集め、9日後の2月28日に鉄球で山荘を破壊し、立てこもり犯全員を逮捕するという結末となった。
1993年
【死刑確定】「連合赤軍永田洋子死刑確定」最高裁が、複数のリンチ・殺人の罪で死刑に問われていた連合赤軍幹部の永田洋子と坂口弘の上告を棄却。この日死刑が確定したが、永田は2001年に再審を請求。しかし2006年11月28日に棄却された。
1994年
【エイズ】デレク・ジャーマン(Derek Jarman)【映画監督/イギリス】(つづきから)さらには1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の直後にイギリス南部のケントにあるダンジェネスという原発施設の危険区域内のコテージに引っ越し、終生をそこで送ったことでも知られている。最晩年はエイズによる合併症でほとんど視力を失い、エイズの合併症により死亡。没年52歳。
1994年
【エイズ】デレク・ジャーマン(Derek Jarman)【映画監督/イギリス】1974年の『In the Shadow of the Sun』でデビューし、1980年代はPetshop Boysやthe Smithらのミュージックビデオ等を制作したことでも知られる実験的な映画監督。代表作に『ザ・ガーデン』『Blue』等。1986年にHIVウィルスへの感染とゲイであるというセクシュアリティを公表し、それらにまつわる問題を社会的に発言をしてきた人物でる。(つづく)
1997年
【死去】鄧小平【政治家/中華人民共和国】 初代中国共産党中央顧問委員会主任、初代国家中央軍事委員会主席、第3代中国共産党中央軍事委員会主席などの要職を歴任した中国共産党の政治家。文化体革命後の毛沢東体制を引き継ぎ、第二次天安門事件後の1990年代初頭まで国政に絶大な権力を保持した最高権力者。パーキンソン病と肺感染症の併発からの呼吸不全で1997年2月19日21時8分に死亡。没年92歳。遺言により角膜などが移植のために使用された。
1997年
【死去】埴谷雄高【小説家・思想家】若くして入党した日本共産党員としての活動により思想犯取り締まりのため1932年に逮捕され、その獄中生活でドストエフスキーに傾倒。出所後に経済誌編集者を経て戦後を迎え、1945年の『近代文学』創刊号で自身のライフワークとなる12章の大長編形而上学的思弁小説『死靈』の第1章を発表。1946年に腸結核のために中断に入るが、1975年にその第5章を『群像』で発表し、その後も9章まで発表したところで脳梗塞で死亡した。没年87歳。
1998年
【自殺】【怪死】新井将敬【政治家】16歳の時朝鮮籍ら日本に帰化し東京大学卒業後は新日本製鐵を経て大蔵省に入省。1986年に大蔵官僚から転身、自民党所属の政治家として衆議院議員に。1994年には新進党結党に参加したが、1996年に自民党に復党。衆議院議員として4期に渡り活躍したが、証券スキャンダル、日興証券(現SMBC日興証券)への利益要求問題が浮上し、衆議院本会議で逮捕許諾請求される。(つづく)
2005年
【死去】岡本喜八【映画監督】(つづきから)2002年に公開された『助太刀屋助六』の現場では主演の真田広之が伝令役を買って出たほどであったが、最晩年まで映画制作の現場に立ち続けた。2005年2月19日に食道ガンで死亡。没年81歳。
2005年
【死去】岡本喜八【映画監督】東宝入社後『独立愚連隊』『江分利満氏の優雅な生活』『日本のいちばん長い日』などを手がけ、昭和期の日本を代表する映画監督に。東宝退社後の1991年に『大誘拐 RAINBOW KIDS』で日本アカデミー賞最優秀監督賞・最優秀脚本賞を受賞した。1995年に『EAST MEETS WEST』のアメリカロケ中に言語障害を発症し、硬膜下血腫と診断され、その後も脳梗塞を発症するなど闘病生活に。(つづく)
2008年
【海難事故】「イージス艦衝突事故」海上自衛隊所属のイージス艦あたごが、新勝浦市漁業協同組合所属の漁船清徳丸と衝突。清徳丸の船体は真っ二つに大破し沈没。船員2名が行方不明となり、5月20日に認定死亡とされた。後日の刑事裁判で双方ともに無罪とされたが当時の石破茂防衛大臣が新勝浦市漁業協同組合川津支所や遺族宅に直接謝罪しに行くなど異例の事態に。
2008年
【政治】「カストロ議長辞任」1959年のキューバ革命で当時のフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒しキューバを社会主義国家に変革。以降、最高指導者として同国を牽引したフィデル・カストロが国家評議会議長・軍最高司令官の辞任を表明。実弟のラウル・カストロにその職務を引き継いだ。
2009年
【死去】前田隣【コメディアン】コロムビア・トップ・ライト門下の漫才師「青空あれや・これや」を経て1964年に青空球児の脱退した「ナンセンストリオ」に加入したコメディアン。江口明、岸野猛とともに「赤上げて! 白下げて! 白上げないで赤下げる!」等のギャグで人気を博した。解散後はピンで活動、肝臓ガン告知後も2008年頃まで浅草東洋館、上野広小路亭などの劇場に上がり続けたが2009年2月19日に肝硬変で死亡。没年72歳。