『1980年に撮影されたディヴァインの宣材写真』

1988年3月7日はアメリカの歌手でありシンガー、容姿面妖のドラァグクィーン“ディヴァイン”ことハリス・ミルステッドが死亡した日である。
ジョン・ウォーターズ監督によるカルト映画の代表的作品『ピンク・フラミンゴ』で衝撃的な出演を果たし、犬の糞を食らうというシーンで映画界に新たな地平を開いた当代一のドラァグ・クィーンであるが、そのセールス・ポイントでもあった100キロを優に超える巨体のために心臓が肥大化し、睡眠中に突然死を迎えることとなった。
様々な関係者に愛され、ジョン・ウォーターズやウーピー・ゴールドバーグによる感動的な葬式で、その“神の名”にふさわしく天国に送られたディヴァインであったが、その最後の最後、生前の未払い税のために遺産・遺品は差し押さえられオークションなどで補填されるというキツいオチが用意されていた。まさに最低の中の最低を競った彼女に相応しいエンディングであったといえるのかもしれない。

(写真はWikipedia Divineより使用)

3月7日の不幸

1919年
【急死】三島彌太郎【銀行家・政治家】

アメリカ留学から帰国後貴族院議員に当選。議員職と並行して横浜正金銀行頭取を務め、第8代日本銀行総裁に就任した人物。徳富蘆花の小説『不如帰』に登場する川島武夫のモデルとしても知られている。第一次大戦中の激務の中、現職総裁として急死した。没年51歳。

1959年
【死去】鳩山一郎【政治家】

自由民主党初代総裁を務め、第52代、53代、54代の内閣総理大臣を務めた政治家。リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの思想に感化され、"友愛"を提唱し、友愛青年同志会を結成、その初代会長として政財界に影響を与えていた。私生活ではクリスチャンで、フリーメイソン会員であったことも知られている。参議院議員、外務大臣を務めた長男・威一郎の息子に後の第93代内閣総理大臣の鳩山由起夫がいる。没年76歳。

1981年
【死去】出光佐三【実業家】

資産家・木田章太郎からの8,000円の融資を得て出光商会を設立。日本石油の機械油などを扱う商売からはじめ、石油売買の大手メーカー、出光興産を創業した人物。1937年2月からは多額納税者議員として貴族院議員を務めた。没年95歳。生前厚く敬った昭和天皇がその死を偲んで「出光佐三逝く 三月七日 国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」という句を贈った。

1988年
【急死】ディヴァイン(Divine)【女優・歌手/アメリカ】

アメリカの歌手でありシンガー、100キロ超のドラァグクィーン"ディヴァイン"ことハリス・ミルステッドが死亡した日である。ジョン・ウォーターズ監督によるカルト映画の代表的作品『ピンク・フラミンゴ』で衝撃的な出演を果たし、犬の糞を食らうというシーンで映画界に新たな地平を開いた当代一のドラァグ・クィーンであるが、そのセールス・ポイントでもあった100キロを優に超える巨体のために心臓が肥大化し、睡眠中に突然死を迎えることとなった。没年42歳。

1995年
【死去】土井勝【料理研究家】

大阪堂島にあった割烹学院卒業後に助手として勤務。1953年に「関西割烹学院(後の「土井勝料理学校」の母体)」を設立し、家庭料理の研究発展に努めた。テレビ創世記から料理番組に出演し、NHK『きょうの料理』、テレビ朝日『土井勝の紀文おかずのクッキング』等の出演番組でお茶の間の人気を博した。「おふくろの味」を流行語にした人物としても知られ、妻の信子、長男の敏久、次男の善晴という家族のすべてが料理研究家として活動している。肝臓ガンで74歳没。死後、『おかずのクッキング』の次男の善晴が引き継いでいる。

1999年
【死去】スタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick)【映画監督/アメリカ】

1962年の『ロリータ』1964年の『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』で世界的ヒットを納め、続く『2001年宇宙の旅』、『時計じかけのオレンジ』等の作品で世界的映画作家としての地位を築いた映画監督。ニューヨーク生まれでアメリカの映画界でキャリアをスタートさせたが、プロデューサーや配給会社が発言権の強いハリウッドのシステムを嫌いイギリスに移住。生涯彼の地で制作を続けた。なお、極度の飛行機嫌いという性質のため海外映画祭に参加することもなく、その知名度に反して映画祭での受賞経験は少ない。遺作となった『アイズ ワイド シャット』の最終カットのチェックをして6日後に心臓発作で死去。没年70歳。

2000年
【死去】二宮洋一【サッカー選手・監督】

慶応義塾ソッカー部在籍中と慶応BRB所属時に全日本選手権に4度の優勝を遂げ、1951年にサッカー日本代表選手兼任監督としてニューデリーで開催された第1回アジア競技大会に出場。 引退後は日本サッカー協会理事、日本クラブユースサッカー連盟会長などの役職を歴任。2000年3月7日、肺炎により82歳没。

2000年
【死去】鶴岡一人【プロ野球選手・監督】

現役時代は南海ホークスの三塁手として本塁打王を獲得するなどの活躍後、同チームの監督に就任。優勝11回、日本シリーズ2回制覇という南海黄金期を牽引し"鶴岡親分"の異名で呼ばれた昭和の名監督。監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督であり、勝率.609は史上唯一の6割超え。テスト生から入団した野村克也を見いだした人物としても知られ、後の名監督となった野村はその影響を各所で公言しているが、2000年3月7日に動脈血栓症による心不全で鶴岡が死亡した際、争議に駆けつけなかったことで球団OB間で物議を醸すこととなった。没年83歳。