『H・P・ラヴクラフトのポートレート』

1937年3月15日は、寡作ながら独自の世界観の幻想ホラー文学『クトゥルフ神話』の作者としてカルト的人気を誇る小説家、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが死亡した日である。
生涯で発表した単行本は『インスマウスの影』だけであったH・P・ラヴクラフトだが、その死後、長年の文通仲間たちにより作品が再評価されると、アメリカの文学史上、しかも幻想文学、ホラー文学の分野においては重要な作家のひとりであると考えられるようになった。
しかし宝石商人として大成した父の元に生まれ、早くして神経症からの衰弱死で実父を亡くし、自らも幼少期から同じ神経症に苛まれていたラヴクラフトの繊細すぎるその精神は評価を獲得するまで彼の命を支えることができなかった。神経症の症状は30歳頃からはだいぶよくなってきたが、長年の文通仲間であったロバート・E・ハワード(『英雄コナン』シリーズ等の作者)が自殺したことに大きな衝撃を受け、翌年、腸ガンと栄養失調により死亡した。ちなみに、ロバートの自殺は、結核で闘病中の母が昏睡状態に陥ったことが原因であった。見方によっては、文通仲間の母親の死がラヴクラフトの生命を奪ったとも考えられなくもなく、H・P・ラヴクラフトの死は、数奇な死の連鎖に拠るものであったといえるだろう。

(写真はWikipedia H. P. Lovecraftより使用。Public Domain)

3月15日の不幸

1年
紀元前44年 【暗殺】ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)【政治家・軍人・ローマ】

古代ローマにおいて最大の野心家と呼ばれた人物で、マルクス・リキニウス・クラッスス、グナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治とを経て、終身独裁官(ディクタトル)となった政治家。元老員の力を制圧し権力を単身掌握したやり方は後の帝政ローマに引き継がれた。英雄色を好むの言葉通りに"ハゲの好色家"として有名で、エジプトのファラオ、クレオパトラ7世との関係は中でもよく知られた関係である。元老院開会前の、ポンペイウス劇場隣接の列柱廊(現トッレ・アルジェンティーナ広場)で腹心の元老院議員マルクス・ユニウス・ブルトゥスややカッシウスらによって暗殺された。23といわれる刺し傷のなかの2つめが致命傷となったとされ、死の間際にカエサルが叫んだ「Et tu, Brute?(ブルトゥス、お前もか)」がシェイクスピア作の戯曲『ジュリアス・シーザー』で有名でとなった。没年55歳。

1年
1937年
【死去】ハワード・フィリップス・ラヴクラフト(H. P. Lovecraft)【小説家/アメリカ】

寡作ながら独自の世界観の幻想ホラー文学『クトゥルフ神話』の作者としてカルト的人気を誇る小説家。生涯で発表した単行本は『インスマウスの影』だけであったH・P・ラヴクラフトだが、その死後、長年の文通仲間たちにより作品が再評価されると、アメリカの文学史上、しかも幻想文学、ホラー文学の分野においては重要な作家のひとりであると考えられるようになった。長年の文通仲間であったロバート・E・ハワード(『英雄コナン』シリーズ等の作者)が自殺したことに大きな衝撃を受け、翌年、腸ガンと栄養失調により死亡した。没年46歳。

1945年
【自殺】ピエール・ドリュ=ラ=ロシェル(Pierre Eugène Drieu La Rochelle)【小説家/フランス】

小説家として活動する傍ら、近い将来のアメリカとソ連の台頭をいち早く予見し、その対抗作としてファシズムに傾倒。1936年に、ファシズム政党であるフランス人民党に入党するが党首ジャック・ドリオに失望し1939年には離党。その後ドイツ占領下でフランス人民等に復帰し、駐仏独大使オットー・アベッツからの要請で『新フランス評論』の編集長に就任。反ユダヤ主義の言論を展開しナチスドイツのファシズムを賛美していた。第二次大戦後期、ナチスドイツの戦局が悪くなるにつれ精神に障害を来し、1944年に服毒自殺を試みるも失敗。その後逮捕状が出ていたためにパリに潜伏し、復習を逃れるために自殺した。

1975年
【死去】アリストテレス・オナシス(Aristotle Socrates Onassis)【実業家/ギリシア】

"20世紀最大の海運王"として知られ、私生活では"20世紀最大のソプラノ歌手"と呼ばれたマリア・カラスとの交際や、ジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領の未亡人、ジャクリーン・ケネディとの再婚相手として有名な人物。重症筋無力症の合併病の気管支肺炎で死亡。没年69歳。その死後、映画監督のフランコ・ゼフィレッリによって、オナシスが両性愛者であったことが暴露された。

1977年
【死去】アントニオ・ロッカ(Antonio Rocca)【プロレスラー/イタリア・アルゼンチン】

1940年代から1960年代にかけて、WWWF(現WWE)のエースとして君臨したスター・プロレスラー。"マディソン・スクエア・ガーデンの帝王"と呼ばれ、初代WWWFインターナショナル・ヘビー級王座に輝くなどの活躍を見せた。日本にはアントニオ猪木対ルー・テーズのNWFヘビー級選手権を裁く特別レフェリーとして1975年10月に初来日。晩年はWWWF中継で、実況のビンス・マクマホン・ジュニアとともに解説を務めた。肝臓ガンで没年49歳。

2014年
【急死】安西マリア【歌手・女優】

ドイツ人の祖父を持つクォーターとして銀座のクラブ「徳大寺」で勤務中にスカウトされ芸能界に。1973年にエミー・ジャクソンの『Crying in a Storm(涙の太陽)』のカバー『涙の太陽』で歌手デビュー。いきなりレコード売り上げが50万枚以上というヒットを記録し第15回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後はテレビ、映画で活躍するが1978年に所属事務所とトラブルを起こし、引退。2000年に芸能界復帰したが、晩年は鬱病を患っていたと自ら告白した。2014年3月8日に急性心筋梗塞で脳死状態に。そのまま同月15日に死亡した。没年60歳。