『「地下鉄サリン事件」を報じる朝日新聞1995年3月20日の夕刊』

1995年3月20日は、麻原彰晃に先導されたオウム真理教による世界初のバイオテロ、「地下鉄サリン事件」が起きた日である。
午前8時という通勤の時間帯に合わせた犯行で、東京都の帝都高速度交通営団(現東京メトロ)の丸ノ内線、日比谷線、千代田線の車内で、同時多発的に神経ガス・サリンが散布されたこの事件。乗客・駅員のうち13人が死亡、負傷者総数6,300人以上といわれる大規模な殺人であり、戦後最大の無差別殺人行為であった。
そしてこの事件は、1994年6月に同教団が起こした「松本サリン事件」に引き続き、一般市民に対して化学兵器が使用された初めてのケースであった。
この事件の2日後にあたる3月22日に、オウム真理教に対する強制捜査を警視庁が実行。その結果、教団幹部であり地下鉄サリン事件の実行犯である林郁夫の自供でこの大規模テロ行為がオウム真理教の犯行によるものであることが判明。その後5月16日に事件の首謀者である教祖・麻原彰晃が逮捕されることに繋がった。
かねてから『ハルマゲドン』なる終末思想を唱えていたカルト教団が、その預言を自ら自演するという、世紀末に相応しい衝撃的な事件により、日本の20世紀は強制的に締めくくられたのだった。

(画像は『朝日新聞』1995年3月20日夕刊)

3月20日の不幸

1年
1703年
【切腹】大石内蔵助良雄【武士】(元禄16年2月4日)

播磨国赤穂藩の藩士であり、赤穂藩の家老を務めていた人物。人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として有名になった『忠臣蔵』の大石内蔵助として知られ、江戸城松之大廊下で吉良上野介義央に斬りかかった主君、浅野内匠頭長矩の即日切腹、お家取りつぶしを受け、敵である吉良を赤穂藩の四十七士として討ち取った「赤穂事件」の主要人物。当時は仇討ちが認められていた世の中であったが、結果的には「徒党を組んだ」ことが仇討ちに当たらないとして四十七士には切腹が申し渡され、それぞれ切腹を遂げた。没年43歳。ちなみに、斬首ではなく切腹であったことは当時赤穂事件が義挙として扱われたことを物語っているとされている。なお、吉良邸から引き上げの際に行方不明となった寺坂信行は不問になったためにこの日切腹をしたのは大石良雄と以下45名の計四十六士である。吉田兼亮、原元辰、片岡高房、間瀬正明、小野寺秀和、小野寺秀富、間光延、 間光興、間光風、礒貝正久、堀部金丸、堀部武庸、近松行重、富森正因、潮田高教、早水満尭、赤埴重賢、奥田重盛、奥田行高、矢田助武、大石信清、大石良金、中村正辰、菅谷政利、不破正種、千馬光忠、木村貞行、岡野包秀、貝賀友信、大高忠雄、岡島常樹、吉田兼貞、武林隆重、倉橋武幸、村松秀直、村松高直、杉野次房、勝田武尭、前原宗房、矢頭教兼、間瀬正辰、茅野常成、横川宗利、三村包常、神崎則休。

1894年
【死去】ラヨシュ・コッシュート【政治家・弁護士/ハンガリー】

ウィーン体制下のハンガリーで下流貴族の家庭に生まれ、弁護士、議員を経てハンガリー革命を率いハンガリー独立の指導者となった人物。デブレツェンに拠点にして、正式にハンガリーの独立を宣言しブダペシュトの奪還にも成功したが、ロシアがウィーンを支持したために包囲されたブタペシュトを捨ててオスマン帝国に亡命。そのまま亡命を続けていた中、トリノで死亡した。没年91歳。自らの亡命先を訪れるハンガリー人のため1890年に蝋管式蓄音機にメッセージを吹き込んでいたことから、歴史上の人物で初めて肉声を録音した人物として知られている。

1924年
【交通事故死】フェルナン・コルモン(Fernand Cormon)【画家/フランス】

アカデミズム絵画の大物として19世紀から20世紀にかけて活躍した画家。『後宮での殺人』等先史や古代をモチーフにした歴史画の作品を数多く手がけた。エコール・デ・ボザール(官立美術学校)や自らの画塾で後進の指導に当たったことでも知られ、その教え子の中にはゴッホやロートレック、日本人では藤島武二らが含まれていた。最期まで教師として活動していたが、1924年3月20日、スタジオから飛び出した瞬間にタクシーに轢き殺されルという壮絶な最期を遂げた。没年78歳。

1972年
【山岳事故】「富士山大量遭難事故」

1972年3月19日の深夜から翌20日にかけての急激な低気圧による悪天候で、富士山御殿場ルート下山中の登山者たちを低体温症や雪崩が襲い、18人が死亡し、6人が行方不明となった山岳死亡事故である。軍隊の訓練を別とした場合を除いて、日本の登山史上最悪の事故となった。

1990年
【死去】レフ・ヤシン(Lev Ivanovich Yashin)【フットボール選手/ソ連】

"黒蜘蛛"の異名で恐れられた、史上最高のゴールキーパーといわれる伝説のフットボーラー。1963年に欧州最高の選手に贈られるバロンドールをゴールキーパーとして唯一受賞した選手でもある。ソ連代表としては78試合に出場し、1956年メルボルン夏季オリンピックの優勝と、1960年フランス欧州選手権での優勝の立役者となった。クラブチームは一貫してディナモ・モスクワでプレイし、チームを5度のリーグ優勝と3度のカップ優勝に導いた。40歳での引退後の1986年に血栓性静脈炎で足を切断し、1990年に胃ガンで死亡した。没年60歳。現在モスクワにあるディナモ・スタジアムの前にはヤシンの像が建てられている。

2004年
【死去】いかりや長介【ミュージシャン・コメディアン・俳優】

昭和のテレビ界を席巻した超人気コミックバンド「ザ・ドリフターズ」のリーダーにしてベーシスト。看板生放送番組『8時だョ!全員集合』は最高視聴率50.5パーセントという驚異的な人気を誇り、最盛期はアベレージで40パーセントを超えるほどの視聴率を誇る怪物番組であった。人気絶頂期以降は主にコントグループとして活動し、後発のコント番組『ドリフ大爆笑』も最高で40パーセントを超えるほどの人気を誇った。1985年の『全員集合』終了後は主に俳優として活動し、ドラマ『踊る大捜査線』等でいぶし銀の名脇役として人気を博した。2003年5月末に原発不明頸部リンパ節ガンで緊急入院。7月には退院し現場復帰したが、翌年3月15日に再入院、全身にガンが転移しており、そのまま20日15時30分に死亡した。没年72歳。弔辞はドリフのメンバーの加藤茶が担当し、「いきなりそっちから『全員集合!』と言われても俺たち4人は集まれないからね」と故人を偲んだ。