『シャープビル虐殺を描いた絵』

1960年3月21日は、南アフリカ政府による市民の大量虐殺「シャープビル虐殺」が起きた日である。
1952年に黒人市民のみに身分証の形態を義務づけたパス法を成立させ、アパルトヘイトを推し進める当時の南アフリカ政府に抗議するため、1960年に身分証を持たずにシャープビルの警察前に集ったPAC(パン・アフリカニスト会議)のメンバーとそのフォロワーは、5,000人とも7,000人ともいわれる膨大な群衆となっていた。そのデモ隊に向けて解散を申し渡した警官たちであったが、もとより逮捕覚悟の群衆たちが解散するはずもなかった。すると警察は群衆に向けて発砲を開始、69人が死亡し、180人以上が負傷するという大惨劇となった。
この事件を受けて南アフリカ全土で抗議活動が勃発、18,000人以上の市民が拘束され、南アフリカ政府は非常事態を宣言することになった。
この異常事態を重くみた国際社会は、国連安全保障理事会で決議134を可決し南アフリカ政府のシャープビル虐殺を非難。南アフリカは国際社会からの孤立を余儀なくされ、将来的にアパルトヘイト廃止への道を模索してゆくことになった。
そして1966年の国連総会で、シャープビル虐殺の起きた3月21日を「国際人種差別撤廃デー」とすることが決議され、南アフリカでも1994年以降は3月21日を「人権の日」とした。この世界的にも国民的にも忘れることができなくなったシャープビルの悲劇を乗り越え、1996年に黒人初の南アフリカ大統領に就任したネルソン・マンデラは、虐殺の地であるシャープビルで新憲法への署名を行なった。有史以来最大の悲劇の舞台を未来への出発点に塗り替えるという、素晴らしい発想であったといえるだろう。

(写真はWikipedia Sharpeville massacreより使用)

3月21日の不幸

1年
1076年
【暗殺】ロベール1世(Robert Ier)【国王/フランス】

父ロベール2世への反乱に参加した三男。1031年に父が死亡し、次男のアンリが新王アンリ1世となると、そこにも反旗を翻したが、アンリからブルゴーニュ公国を与えられ和平状態に。毒殺され65歳で死亡。

1960年
【大量殺人】「シャープビル虐殺事件」

南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで「シャープビル虐殺事件」が発生。アパルトヘイトを推し進める当時の南アフリカ政府に抗議するため、シャープビルの警察前に集ったPAC(パン・アフリカニスト会議)のメンバーとそのフォロワーは、5,000人とも7,000人ともいわれる膨大な群衆に向けて警察が発砲。69人が死亡し、180人以上が負傷するという大惨劇となった。この事件を受けて南アフリカ全土で抗議活動が勃発、18,000人以上の市民が拘束され、南アフリカ政府は非常事態を宣言することになった。この異常事態を重くみた国際社会は、国連安全保障理事会で決議134を可決し南アフリカ政府のシャープビル虐殺を非難。南アフリカは国際社会からの孤立を余儀なくされ、将来的にアパルトヘイト廃止への道を模索してゆくことになった。そして1966年の国連総会で、シャープビル虐殺の起きた3月21日を「国際人種差別撤廃デー」とすることが決議され、南アフリカでも1994年以降は3月21日を「人権の日」とした。1996年に黒人初の南アフリカ大統領に就任したネルソン・マンデラは、虐殺の地であるシャープビルで新憲法への署名を行なった。

1971年
【死去】横山エンタツ【漫才師】

花菱アチャコとのコンビ「エンタツ・アチャコ」で「しゃべくり漫才」を創始、現在の漫才の始祖といわれる大正・昭和初期の上方芸人。初期の吉本興業の看板スターとして活躍し、吉本新喜劇にも出演していた。1934年にアチャコが中耳炎を患ったことをきっかけにコンビを解消。エンタツ劇団を立ち上げ役者として活動を開始し、ラジオ等でも活躍したが、戦後大人気を博し吉本の一枚看板となったアチャコの活躍には及ばなかった。1971年3月21日に脳梗塞で死亡。74歳没。

1977年
【死去】田中絹代【女優】

14歳で松竹に入社し、清純派スター、看板女優として国民的人気を博した映画黎明期の大女優。生涯出演数260本以上と数多くの巨匠の名作で活躍したが、特に小津安二郎、溝口健二の両監督の作品で数多く起用された。代表作に『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『楢山節考』等多数。晩年出演した熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)ではベルリン国際映画祭最優秀女優賞に輝いた。1977年1月12日に脳腫瘍で順天堂病院に入院し、3月21日午後2時15分に死亡した。没年67歳。遺作はドラマ『前略おふくろ様』。争議は3月31日に築地本願寺で「映画放送人葬」として行なわれ、2千人ものファンが参列。誰もが焼香台の上に100円玉を置いていった。

1993年
【死去】神永昭夫【柔道家】

全日本選手権を当時としては史上最多となる3回の優勝を遂げ(1960年、1961年、1964年)、猪熊勲とともに当時の日本を代表する柔道家であった人物。1964年の東京オリンピックで史上初のオリンピック公式種目となった柔道無差別級に日本代表としてエントリーし、決勝でアントン・ヘーシンクに敗れた。当時は無差別級こそが柔道といわれていたために、その敗北は"日本柔道の敗北"といわれ騒がれたものの、本人は翌日からいつも通りの生活に戻ったという。網膜剥離により1965年に現役引退、その後は母校である明治大学の柔道部監督に就き、上村春樹を育て上げ、1976年モントリオールオリンピックで上村の無差別級金メダル獲得をサポートした。以降も全日本柔道の総監督としてバルセロナオリンピックでの吉田秀彦や古賀稔彦を金メダル獲得に導くなど指導者として活躍したが、翌1993年に直腸ガンで死亡した。没年56歳。

2016年
【死去】四代目江戸家猫八【芸人】

祖父、父を引き継ぎ、四代目江戸家猫八として動物の声帯模写で活躍した芸人。父の健在時は初代江戸家小猫として活動した。胃ガンで66歳没。妹は江戸家まねき猫、長男が二代目江戸家小猫として活動している。