『ヴァージニア・ウルフの肖像画』 画=ロジャー・フライ/1917年頃

1941年3月28日は、20世紀のモダニズム文学に偉大な足跡を残した女性作家、ヴァージニア・ウルフが入水自殺を遂げた日である。
『ダロウェイ夫人』 『灯台へ』等の代表作で、英国文学界のみならず、世界的な名声を確立していたヴァージニア・ウルフであったが、その人生は常に精神的な落ち込みと隣り合わせの繊細なものであった。
13歳時の母の急死、そこに重なる義姉の死は、最も多感な10代の彼女に神経症を引き起こし、22歳で父親が死亡した時には深刻な虚脱状態と鬱状態に陥り、精神科での入院治療を必要としたほどであった。
以来、彼女は深刻な双極性障害に苦しみ、最愛のパートナーであり同じく作家である夫、レナード・ウルフとの“成功者”としての生活に於いても幾度かの危機を招くほどであった。
そして1941年3月28日、遺作となる『幕間』を書き上げた後、コートの中に小石を詰め込んだウルフは、自宅からほど近いウーズ川で入水自殺を遂げたヴァージニア・ウルフ。
原因は第一次大戦での自宅の崩壊や、自らが出版した妹の恋人であり友人の画家、ロジャー・フライの伝記が不評であったことなどが挙げられているが、その真相は定かではない。確かなことは、彼女に訪れた最後の鬱が、彼女には到底乗り切れるものではないという絶望感を引き起こしていたということだけであった。
残された夫への遺書は、“世界でも最も美しい遺書”と呼ばれるほどに切ない文章で、自らの精神的窮状と夫への愛情を綴り、世界中のファンの感情を呼び起こした。
彼女にとって鬱と闘うことはその時既に不可能であり、自殺こそが“最もすべきこと”「So I am doing what seems the best thing to do.」となっていたのであった。
世界の文学史においても重要な役割を果たした作家として並外れた名声を獲得していた彼女であったが、その絶望は誰知らず深いものであったことに世界は驚いた。その悲しみの深さを表わすかのように、小石に沈められた彼女の遺体は、20日後の4月18日まで発見されることはなかった。

(画像はWikipedia Virginia Woolfより使用。Public Domain)

3月28日の不幸

1881年
【アルコール依存症】モデスト・ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)【音楽家/ロシア】

ロシア国民楽派「5人組」に名を連ねるひとりであり、19世紀ロシアを代表する音楽家。代表曲にはピアノ組曲『展覧会の絵』、交響曲『はげ山の一夜』などがある。1839年にロシアの貴族の家に生まれ、幼少の頃より母親からピアノを習う。10代は軍人を志し、13歳で陸軍士官候補生となるが、ミリ・バラキレフといった文化人との出会いにより、19歳で退役。その後はバラキレフを含む、アレクサンドル・ボロディン、ツェーザリ・キュイ、ニコライ・リムスキー=コルサコフらとともにロシア国民楽派「5人組」を結成。ロシア固有のリズムやメロディーを用いたスタイルは、印象派のドビュッシーらに大きな影響を与えることとなった。1865年に母親が死去してから重度のアルコール依存症となるも、作曲活動を続けていた。1881年に自身4度目の心臓発作を起こし、入院。同年3月にアルコール依存症による心臓病で死去。没年42歳。

1930年
【死去】内村鑑三【キリスト教伝道師・思想家・小説家・教師】

19世紀の日本を代表するキリスト教指導者であり、日本独自の無教会主義の創始者。著作に『代表的日本人』などがある。江戸の武士長屋で高崎藩士の長男として生まれ、札幌農学校時代にW.S.クラークに影響を受け、キリスト教に入信。卒業後、北海道開拓使民事局勧業課に勤めるも、結婚の失敗により渡米。アーモスト大・ハートフォード神学校に学び、総長で牧師でもあったJ.H.シーリとの出会いにより、伝道者になることを決意。1888年に帰国後は教師となるが、1891年の「不敬事件」により解雇。その後は『万朝報(よろずちょうほう)』の新聞記者を経て独立、日本初の聖書雑誌『聖書之研究』を創刊した。思想家としては足尾銅山鉱毒の反対運動や日露戦争において非戦論を説くなどしている。晩年は伝道事業のための世界伝道協賛会を設立。1930年心臓病により死去。没年70歳。

1941年
【自殺】ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)【小説家・評論家/イギリス】

20世紀のモダニズム文学に偉大な足跡を残した女性作家。『ダロウェイ夫人』 『灯台へ』等の代表作で、英国文学界のみならず、世界的な名声を確立していたヴァージニア・ウルフであったが、10代の頃から深刻な双極性障害に苦しみ、1941年3月28日、遺作となる『幕間』を書き上げた後、コートのポケットに小石を詰め込んだウルフは、自宅からほど近いウーズ川で入水自殺を遂げたのだった。原因は第一次大戦での自宅の崩壊や、自らが出版した妹の恋人であり友人の画家、ロジャー・フライの伝記が不評であったことなどが挙げられているが、その真相は定かではない。没年59歳。夫への遺書は、"世界でも最も美しい遺書"と呼ばれるほどに切ない文章で自らの精神的窮状と夫への愛情を綴り、世界中のファンの感情を呼び起こした。
また、小石に沈められた彼女の遺体は、20日後の4月18日まで発見されることはなかった。

1969年
【死去】ドワイト・D・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower)【軍人・政治家/アメリカ合衆国】

第34代アメリカ合衆国大統領および連合国遠征軍最高司令官、NATO軍最高司令官を歴任した人物。愛称は"アイク(Ike)"。1890年テキサス州デニソンの裕福ではない農家の家庭で育ち、学費がかからないという理由から1911年に士官学校へ入学。卒業後は少尉、少佐と陸軍士官としてのキャリアを重ねるが、第1次世界大戦では従軍することはなかった。その後、フォックス・コナー、ダグラス・マッカーサーといった人物に仕え、第2次世界大戦で招請されると、第2次世界大戦での昇進は目覚ましく、最終的にはヨーロッパ反攻作戦における連合国遠征軍最高司令官を経て陸軍元帥まで登りつめる。戦後はコロンビア大学学長、NATO軍初代最高司令官などを歴任。1952年に共和党から大統領選挙に立候補し、圧倒的な票数で大勝、第34代アメリカ大統領に就任し朝鮮戦争の休戦協定などを行なった。1961年の退任後、1969年、ワシントンD.C.の陸軍病院で鬱血性心不全のため死亡。没年78歳。

1987年
【死去】マリア・フォン・トラップ(Maria Augusta von Trapp)【合唱団指導者・小説家/オーストリア】

「トラップファミリー合唱団」結成者のひとりであり、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公・マリアのモデルとなった人物。1905年オーストリア生まれ。幼い頃に両親を亡くし、全寮制の学校や修道院で暮らすも修道院の生活に馴染めず、院長の勧めにより娘の家庭教師を探していたフォン・トラップ家へ住み込みで働くことに。翌年、寡夫であったゲオルク・フォン・トラップと結婚。1男2女をもうけ、12人の大家族となる。1932年に金融恐慌を受け、一家は財産の全てを失う。この時、マリアの提案により空き部屋を神学生に貸し出すことに。この時期に家族は神父から音楽指導を受け、1935年に「ザルツブルク音楽祭」に出たところ一家は優勝し、以降「トラップ室内聖歌隊」としてヨーロッパ全域でコンサート活動を行なった。1938年にナチスの台頭により、一家はオーストリアを離れ、ニューヨークへと向かい、1940年に一家を引き取ったアメリカの大手プロダクションにより「トラップ・ファミリー聖歌隊」と改名。1956年まで、全米でコンサートを行なった。1959年にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』がブロードウェイで上演、その後、1965年に映画化。世界的大ヒットとなるが、本の映画化権は安く手放してしまっていたため、一家に利益が入ることはなかった。1987年、バーモント州モスビルで心不全により死去。没年82歳。

2011年
【死去】氏家斉一郎 【実業家】

東京大学在学中に渡邉恒雄と友人関係を結び、ともに日本共産党に入党。同大学卒業後はともに読売新聞社に入社した。記者としてはホー・チ・ミンの死を世界に先駆けて行なったことで知られている。その後日本テレビ放送網代表取締役会長、日本民間放送連盟会長、読売新聞グループ本社取締役相談役を歴任。長らくクローン病を患い、2011年3月28日に多臓器不全で84歳没。