『1965年にソ連で発行された宇宙飛行士ウラジミール・コマロフの切手』

1967年4月23日は、ソ連の有人宇宙船「ソユーズ1号」が墜落した日である。
この日の午前3時35分に行なわれたソユーズ1号の発射は、電力トラブルなどにより、同日中に緊急帰還となった。しかしパラシュート装置の不具合により、乗組員のウラジミール・コマロフは地面に叩きつけられ即死となった。この事故により、コマロフは歴史上初めて、有人宇宙飛行で死亡した人物となった。原因のひとつには、アメリカとの宇宙開発競争での主導権を握るためにを発射を急いだソ連政府の問題だったとも言われており、技術者たちはソユーズ1号の200以上もの欠陥を指摘していたが、前日の“ソ連建国の父”レーニンの出生日を祝いたいという論調で発射は断行されたという。1961年に単独宇宙飛行に成功したガガーリンも、あらかじめその危うさに気づいていたために、自らが代わりに搭乗すると申し出ていた。これは社会的影響力のある自分なら危険を冒す発射をしないであろうという目論見からであったが、コマロフは半ば失敗を予期しながらも、「国民的英雄の生命を危険にさらすことはできない」と語り、自らが進んで人柱となったという。果たして、多くの専門家の予期した通りに、コマロフは帰らぬ人となった。彼の遺灰は赤の広場にあるクレムリンの壁に埋葬されているが、彼の勇気は、ロシア人ならずとも、永遠に忘れ去られるべきではないものだろう。

(写真はWikipedeia Soyuz 1より。Public Domain)

4月23日の不幸

1616年
【死去】【怪死】ウィリアム・シェイクスピア【劇作家・詩人/イングランド王国(イギリス)】『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』の4大悲劇や『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』という名作群で知られるイギリスのみならず、世界でも最高の劇作家の一人。腐ったニシンから伝染した感染症で死亡したという。没年52歳。
1967年
【宇宙船墜落】「ソユーズ1号墜落事故」1967年4月23日に発射されたソ連の有人宇宙船「ソユーズ1号」だったが、電力トラブルなどにより、同日中に緊急帰還に。しかしパラシュート装置の不具合により乗組員のウラジミール・コマロフは地面に叩きつけられ即死。人類初となる"宇宙飛行士の墜落事故死"となった。宇宙分野での主導権を握るためにを発射を急いだソ連政府の問題だったとも言われており、コマロフも失敗を予期しながらも、他者の犠牲を出さぬために自らが人柱となったと言われている。
1969年
【殺人事件】「高校生首切り殺人事件」東京・目黒区にあったサレジオ高校の男子生徒が山中で同級生を殺人。被害者による日頃からのいじめが原因だったとされる。殺人犯の少年はその後弁護士となっていたことが、奥野修司著『心にナイフをしのばせて』や週刊誌の報道によって明るみに。
1994年
【猟奇殺人事件】【未解決事件】「井の頭公園バラバラ殺人事件」建築士の男性の死体が27個に切り刻まれ、東京・井の頭公園のゴミ箱(7カ所)に入った袋から発見された事件。2009年4月23日に時効が成立し、未解決事件となった。
1995年
【死去】クリーンヘッド・ギムラ【ミュージシャン】「東京スカパラダイスオーケストラ」の元メンバー。脳腫瘍のため死去。没年33歳。
1995年
【殺人事件】『村井秀夫刺殺事件』青山にあったオウム真理教東京総本部前で、大勢の報道陣の衆人環視の中、在日朝鮮人の徐裕行に刺殺されるという事件。村井は翌24日未明に死亡した。
1998年
【獄中死】ジェームズ・アール・レイ(James Earl Ray)【殺人犯】マーチン・ルーサー・キングJr.牧師暗殺の実行犯。その後も脱獄と逮捕を繰り返し、最終的には99年の刑務中にC型肝炎を原因とした腎不全で獄中死。没年70歳。
1998年
【死去】大泉滉【俳優】ロシア人祖父を持つロシア・クォーターの個性派俳優。晩年は妻と共演し続けたテレビ番組『わてら陽気なオバタリアン』でのダメ亭主ぶりが印象的。没年73歳。
1999年
【死去】杉浦茂【漫画家】

『のらくろ』の田河水疱門下に学び、代表作『猿飛佐助』等で国民的人気を博した、昭和初期を代表するギャグ漫画家。腹膜炎で死亡、没年92歳。

2007年
【死去】ボリス・エリツィン【ロシア連邦初代大統領】ロシアの初代大統領として国際社会に打って出るも、チェチェン侵攻の失敗などで国政も不安定に。自らの後継に現プーチン大統領を指名して辞任。心臓疾患、多臓器不全で死去。没年76歳。
2012年
【交通事故】「亀岡市登校中児童ら交通事故死事件」京都府道402号王子並河線で無免許運転の少年(18歳)が通学中の小学生と保護者を轢き殺した事件。3人が死亡、7人が負傷した。運転していた少年は以前から無免許運転の常習者であり、この日は睡眠不足からの居眠り運転だった。少年には懲役5年以上9年以下の不定期刑が確定した。
2016年
【死去】山本功児【プロ野球選手・監督】

法政大学、本田技研鈴鹿を経て1975年にドラフト5位で読売ジャイアンツに入団。一塁手、外野手として活躍したが、1984年に三宅宗源とのトレードでロッテ・オリオンズに移籍。同年にプロ入りして初めて規定打席に達し、一塁手としてゴールデングラブ賞を受賞する活躍を見せた(翌年も二年連続で受賞)。1988年にはコーチ兼任となり、そのシーズンで引退。そのままロッテでコーチを続け、二軍監督を経て1999年に一軍の監督に就任。2003年までの5年間千葉ロッテ・マリーンズを率いた。2004年からはジャイアンツにコーチとして復帰し、翌年の退任後は解説者、評論家として活動したが、2008年に慢性心不全を発症して以来、治療、静養に務めていたが、2016年4月23日に、北九州市内の自宅で肝臓ガンで死亡した。没年64歳。前年10月22日に行なわれたドラフト会議で、長男の山本武白志が横浜DeNAベイスターズの育成2位指名でプロ入りしたことを見届けての死であった。