『ジェフ・バックリーのデビューアルバムにして生前唯一の発表作品「GRACE」のジャケット』

1997年5月29日は“天使の歌声を持つ”と形容された歌手、ジェフ・バックリィがテネシー州メンフィスにあるミシシッピ川のウルフ・リバー・ハーバーで溺死した日である。
実父であり1960年代に活躍した歌手、ティム・バックリィとは、ティムがドラッグの過剰摂取であったために8歳以降、死ぬまで会うことはなく、母の再婚相手のムーアヘッド姓を名乗っていたジェフだったが、父の死後バックリィ姓に変更。父の元マネージャーの縁でデビュー盤にして遺作となった『グレース』を1994年に発表。晴れてシンガーソングライターとしてデビューしたが、メジャーデビューから3年後のセカンド・アルバム制作中にミシシッピ川で溺死した。生来双極性障害を抱えていたために自殺の可能性も囁かれていたが、警察当局はその可能性を否定。ドラッグ等も検出されず、単純に事故であったとされている。しかし、ジェフ・バックリーが本当の意味でその名を世界にとどろかせたのは死後の2008年になってからであり、その年にレナード・コーエンの『Hallelujah』をカバーした音源がシングル発表されると、ビルボードのデジタル部門で1位になるなど、世界的なヒットと記録した。この曲は現在も世界のオーディション番組で最も歌われる頻度の高い曲の一つとなり、それはまたあらゆる世代での絶大な人気を証明し続けている。その“天使の”と呼ばれた歌声は、現在も生き続けているのだ。

(写真はジェフ・バックリィ『GRACE』1994年8月23日発売/コロムビア)

5月29日の不幸

1942年
【死去】与謝野晶子【歌人・作家・思想家】歌集『みだれ髪』を刊行したことで知られた日本を代表する女性の歌人であり、また夫の鉄幹との間に12人もの子息を出産した母でもあった。早くから女性の自立を説いたフェミニストでもあり、同時期に活動したフェミニスト、平塚らいてうよりもさらに急進的な意見、国家にも男性にも頼らない極めて現代的な女性像の実現を説いた。1940年の5月頃に脳出血の後遺症で右半身不随となり、1942年1月4日に意識不明に。その約5カ月後の5月29日に息を引き取った。没年63歳。
1970年
【早世】エヴァ・ヘス(Eva Hesse)【美術家・彫刻家・画家/ドイツ・アメリカ】

ドイツ生まれのユダヤ人アーティスト。・ナチスのユダヤ人弾圧を恐れてアメリカ・ニューヨークに移住。母親は自殺した。主に立体物で、抽象的な作品やミニマリズムの分野において印象的な作品を残す。1970年から、脳腫瘍の手術を3度受けた後に死亡。没年34歳。

1985年
【暴動】「ヘイゼルの悲劇」ベルギー・ブリュッセルのエゼル競技場(英語読みはヘイゼル)で行なわれたUEFAチャンピオンズカップ1984-85の決勝戦、イングランドのリヴァプールFC対イタリアのユヴェントスの試合前に、サポーター同士が争い暴徒化。死者39名、負傷者600名以上を出す惨劇となった。その原因はイングランドで隆盛を誇っていたフーリガンの問題があるとし、UEFAはこの事件の制裁としてリヴァプールFCに6年間、イングランドのクラブに5年間のUEFA主催国際試合への出場停止処分を行なった。
1997年
【怪死】【早世】ジェフ・バックリィ(Jeff Buckley)【ミュージシャン/アメリカ】

1960年代に活躍した歌手、ティム・バックリィの息子。8歳で会って以来ティムがドラッグの過剰摂取で死ぬまで会うことはなく、母の再婚相手のムーアヘッド姓を名乗るが、父の死後バックリィ姓に。父の元マネージャーの縁でデビュー盤にして遺作となった『グレース』を発表。シンガーソングライターとしてデビューしたが、セカンド・アルバム制作中にミシシッピ川で溺死。没年30歳。双極性障害だったため自殺の可能性も囁かれている。死後の2007年、レナード・コーエンの『ハレルヤ』をカバーした音源がシングル発表されると、ビルボードのデジタル部門で1位になるなど、世界的なヒットに。改めてその"天使の歌声"と呼ばれた才能が評価され、現在も多くのリスナー、歌手に影響を与え続けている。

2006年
【死去】岡田眞澄【俳優】日本人画家の父とデンマーク人翻訳家の母の間に、フランスのニースで生まれた日本の人気俳優。実兄はE・H・エリック。その日本人離れしたルックスでバラエティ番組や司会者としても活躍し、長らく「ミス・インターナショナル」の司会を務めた。2人目の妻は26歳年下の女性で、62歳で長女をもうけた(前妻で女優の藤田みどりとの間にも3人の子供がいる)。2005年7月に食道ガンと診断され、翌年死亡。70歳没。
2010年
【死去】デニス・ホッパー(Dennis Hopper)【俳優・監督・プロデューサー/アメリカ】

映画『理由なき反抗』『ジャイアンツ』でジェームス・ディーンと競演するなど、若くして活躍していた俳優。ディーンの交通事故死に影響を受け、それまでの映画制作に疑問を抱きインディペンデント映画の世界に。自ら監督・プロデューサーを務めた映画『イージー・ライダー』はアメリカン・ニューシネマの代表作となった。一時期はドラッグとアルコールという私生活でのトラブルからキャリアも危ぶまれたが、『ブルーベルベット』『勝利への旅立ち』等数々の出演作を残した。2009年10月に報じられた前立腺ガンが骨にまで転移し、翌年カリフォルニアの自宅で死去。没年74歳。

2012年
【死去】新藤兼人【映画監督・脚本家】カンヌ国際映画祭で話題をさらった『原爆の子』を始め社会的な作風で知られる映画監督。その他代表作に『裸の島』『濹東綺譚』『三文役者』等。2011年99歳で監督した遺作『一枚のハガキ』が日本最高齢の監督作品である。翌年100歳で、老衰により死去。
2014年
【死去】原貢【野球監督】東海大学付属相模高等学校野球部の監督を務め、同校のスターとなった原辰徳(元巨人軍選手・監督)との親子鷹で話題に。その後辰徳の大学進学と共に東海大学の監督に就任。以来、長きにわたり同校の野球部監督として指導にあたる。2014年5月4日に心筋梗塞で入院。その後29日に心不全で死亡した。没年79歳、死後東海大学野球部名誉総監督に。