『エイダ・エマの撮影したコナン・ドイルの心霊写真』

1930年7月7日は『シャーロック・ホームズ』シリーズの作者として知られるコナン・ドイルが死亡した日である。
本人の意向とは関係なく大ヒットしたホームズ作品にはあまり強い思い入れはなかったと言うが、晩年はスピリチュアル(=心霊主義)に傾倒し、全ての名声をその実証にのために捧げてもいいと語るほどの心酔ぶりだったという。その象徴としては、最も有名な心霊写真のひとつである「コディングリー心霊写真」の強力な肯定者であったことであろう(後にトリックだったことを撮影者が告白。だが最後の1枚のみ真実だと言い張った)。大作家の怪奇趣味に、世間は戸惑い、晩節を汚したというのが社会的な評価であるが、同じく心霊主義に傾倒した妻は、夫の死に際しても「精神の、別の世界への旅立ち」ととらえてパーティのような葬式を挙げたという。その意味においては死を達観した強い生き方とも考えられ、虚飾まみれのこの20世紀前半の心霊主義にも、ひとつの真実が存在しているように思えなくもない。ちなみに、この写真を撮影したエイダ・エマは合成写真のトリックが露見してすぐさまそのキャリアを失っている。

(Wikipedia コナン・ドイルより。Public Domain)

7月7日の不幸

1930年
【死去】アーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle)【小説家・医師/イギリス】

世紀のベストセラー小説『シャーロック・ホームズ』シリーズを生み出した人物として知られ、ミステリ小説というジャンルを確立したイギリスを代表する小説家。大学卒業後は診療所で医師として働く傍ら、小説家活動を開始。その後小説家に専念し、医師時代に書いていた探偵・シャーロック・ホームズを主人公としたシリーズを開始し、世界的な成功を収めた。その後は政治活動や冤罪事件の告発など様々な活動をし、極めつきは心霊主義への傾倒であった。そのために晩年は心臓発作が増えても医者の忠告を受け入れず、心霊主義弾圧に使用されていた魔女法の撤廃を訴え続けることで憔悴し、そのまま心臓発作で息を引き取った。没年71歳。最後の言葉は妻に向かい「You are wonderful.」だった。

1953年
【死去】阪東妻三郎【俳優・映画監督】

"バンツマ"の愛称でサイレント期からトーキー期に変遷する大正・昭和初期の映画界で、国民的人気を博した二枚目映画俳優。俳優の田村高廣、田村正和、田村亮の実父。独特の美しさを称える殺陣で、日本映画界に剣戟ブームを巻き起こした。1953年の映画『あばれ獅子』を撮影中に体調を崩し、そのまま7月7日脳内出血で死亡。51歳没。

1973年
【死去】ヴェロニカ・レイク(Veronica Lake)【女優/アメリカ合衆国】

1940年代のハリウッドでファムファタールの代名詞として活躍した女優。常に右目を覆い隠しているブロンドの髪がトレードマークで、1942年の映画版『奥様は魔女』で主役を務めた。晩年はアルコール依存症に苛まれ、腎不全と肝炎の合併症で50歳没。

1997年
【連敗記録】「千葉ロッテマリーンズ17連敗」

プロ野球の千葉ロッテマリーズが、GS神戸で行なわれたオリックス・ブルーウェーブ戦に延長12回の末3対7で敗れ、日本プロ野球ワースト新記録の17連敗(途中1引き分け挟む)を記録。敗戦投手は藤田宗一。翌日も破れ記録は18連敗に。

2014年
【死去】アルフレッド・ディ・ステファノ(Alfredo Stefano Di Stéfano Lauthe)【サッカー選手/アルゼンチン・コロンビア・スペイン】

1950年代にUEFAチャンピオンズカップ5連覇を達成した"白い巨人"レアル・マドリード黄金期の主力として活躍したフットボーラー。ワールドカップ出場経験こそないものの、"史上最も完成された"といわれるその優雅なプレイスタイルでフォワードでありながらあらゆる役割を演じることができ、同時代に活躍したペレをも凌ぐ"20世紀の世界最高プレーヤー"であったとの呼び声も高い。クラブチーム通算664試合で484ゴール(うちレアル・マドリードでの11シーズンで307ゴール)、1957年、1959年と二度の欧州最優秀選手賞(バロンドール)獲得と、伝説的な成績を残した。引退後は自らが選手時代に所属したリーベル・プレートやレアル・マドリード等の監督を務め、晩年はレアル・マドリードの象徴として名誉会長を務めた。2005年12月24日に心臓発作を起こし、2014年7月5日にも再度心臓発作に見舞われ、そのまま同月7日に死亡した。没年88歳。

2016年
【死去】永六輔【タレント・随筆家・放送作家・作詞家】

戦後隆盛したラジオ、テレビ番組の構成作家であり、坂本九の代表曲『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』を始め、『黄昏のビギン』『いい湯だな』『こんにちは赤ちゃん』等、昭和を代表するヒット曲を手がけた作詞家。1967年から43年間放送された『永六輔の誰かとどこかで』等、独特の舌足らずな口調を活かしたラジオのパーソナリティとしても長きにわたり活躍した。2010年にパーキンソン病であることを公表し、歩行困難となったために2006年の奄美大島、2011年の自宅で転倒事故で大怪我を負うも仕事は継続。2016年6月27日の放送でラジオ『六輔七転八倒九十分』が終了し引退。直後の7月7日に肺炎で83歳没。