『1969年度のピュリッツァー賞受賞作「サイゴンでベトコン捕虜を処刑するグエン・ゴク・ロアン将軍」』撮影・エディ・アダムズ

1998年7月14日は、ベトナム戦争当時の南ベトナムで国家警察総監を務めたグエン・ゴク・ロアンが死亡した日である。
このアメリカ人写真家が撮影した一枚によりアメリカの反戦運動が高まるきっかけになったというほど、この写真が世界に与えた衝撃は絶大であった。
しかし、後日明らかになったのは、この暴力的な銃撃を行なっているロアン将軍の置かれた、同情を引くような当時の状況であった。確かロアンはカメラの前で(NBCニュースのカメラマンも撮影し報道した)連れてこられた捕虜を即刻射殺しているのだが、後日南ベトナムが発表したところによると、射殺されたグエン・ヴァン・レム(他説有り)は、ロアンが名付け親になった子供6名や親友とその家族を含む、警察官が30人以上も射殺された現場の近くで逮捕された人物であり、警察官を殺害したばかりの凶悪犯であった可能性が高いということであった。その事実を知った撮影者のアダムズは「私はカメラで将軍を殺してしまった」と後悔の言葉を公表し、ルアンの家族にまで謝罪をしたが、ピューリッツァー賞にまで輝いた写真の影響力は絶大であり、その後機関銃の攻撃により足を失ったロアンは1975年のサイゴン陥落を機にアメリカに亡命しピザ店をオープンするも、“あの処刑をした人物”であることが周囲に露呈するやいなや、すぐさま閉店に追い込まれたという。
このグエン・ゴク・ロアン将軍の写真を巡る物語は、現在のように誰もが動画を撮影・公開できる情報速度の速い時代とは異なり、1枚の写真が世界を変えることのできた時代だからこそ起きた悲劇であったといえるだろう。

(写真はWikipedia Nguyễn Ngọc Loan より。Public Domain)

7月14日の不幸

1881年
【暗殺】ビリー・ザ・キッド(Billy the Kid)【ガンマン・アウトロー・強盗/アメリカ合衆国】

アメリカ西部開拓時代に義賊として知られ、8人を相手に仕留めるなど、驚異的な早撃ちを誇った伝説のガンマン。本名ヘンリー・マカティ、その後ウィリアム・H・ボニーを名乗った。12歳で、母親を侮辱してきた男を殺して以来、その人生で21人を殺害したといわれ、後の映画・小説等のエンターテインメント作品で伝説的に描かれたことで絶大な人気を博した。1881年7月14日にニューメキシコ州フォートサムナーで寝室から出たところをフォートサマーの保安官に指名されたガンマン、パット・ギャレット(前年にキッド一味を逮捕した人物)により暗殺された。没年21歳。その死後、多くの英雄と同じように生存説が流れた。

1939年
【死去】アルフォンス・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)【画家・グラフィックデザイナー/チェコスロバキア】

鮮やかな色使いと美しく退廃的な美女をモチーフにした作品群でアール・ヌーヴォー期を代表する世界的な画家であり、グラフィック・デザイナー。独特の曲線を活かした『ジスモンダ』に代表されるポスター・看板等の作品と、連作『スラヴ叙事詩』に代表される絵画作品で、世界中に多大な影響を与えた。肺感染症によりプラハで死亡。没年78歳。

1998年
【死去】グエン・ゴク・ロアン(Nguyễn Ngọc Loan)【警察官僚/南ベトナム】

エディ・アダムズ撮影の1969年度のピュリッツァー賞受賞作「サイゴンでベトコン捕虜を処刑するグエン・ゴク・ロアン将軍」で世界的に知られるようになったベトナム戦争当時の南ベトナムで国家警察総監を務めた人物。その後機関銃の攻撃により足を失ったロアンは1975年のサイゴン陥落を機にアメリカに亡命しピザ店をオープンするも、"あの処刑をした人物"であることが周囲に露呈するやいなや、すぐさま閉店に追い込まれた。バージニア州バークにてガンのため67歳没。

2014年
【死去】深田祐介【小説家・随筆家】

日本航空を始めとした航空会社でのサラリーマン生活の傍ら、小説家として活動した人物。、1958年の小説『あざやかなひとびと』で第7回文學界新人賞、1976年のエッセイ『新西洋事情』で第7回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、1982年には小説『炎熱商人』で第87回直木賞を受賞した。日本航空退社後の1983年に発表した『スチュワーデス物語』がドラマ化され、社会的な人気を獲得した。肺炎により82歳没。

2015年
【死去】高橋一三【プロ野球選手・指導者】

広島県北川工業高等学校(現県立府中東高校)を卒業後の1965年に読売ジャイアンツに入団。1969年には22勝5敗、防御率2.21という目覚ましい結果を残し、最多勝利投手、最高勝率、沢村賞、ベストナインとタイトルを総ナメし一躍球団の主力選手に。1965年からV9を続けていたジャイアンツの"左のエース"として活躍したが、成績不振が続くと1976年に播本勲との1対2のトレードで日本ハムファイターズに移籍(もうひとりは富田勝)。移籍後は腰痛に苛まれたが1981年のリーグ優勝に貢献するなど、見事復活を遂げた。1983年シーズン開幕前に現役を引退。通算成績167勝132敗12セーブ生涯防御率3.18。以降は古巣2球団の投手コーチを歴任し、2009年からは山梨学院大学硬式野球部の監督に就任したが、在任中の2014年春に体調不良で退任。その後も顧問を務めていたが、翌年7月14日に心不全で死亡した。69歳没。