『主演映画「ドラゴン 怒りの鉄拳」出演時のブルース・リー』

1973年7月20日は世界的カンフー・スター、ブルース・リーの急死した日である。
1971年に公開された初主演映画『The Big Boss(ドラゴン危機一発)』というたった一作で香港きってのアクションスターに登り詰めたブルース・リー。続く『Fist of Fury(ドラゴン怒りの鉄拳)』『Way of the Dragon(ドラゴンへの道)』という主演映画も立て続けにヒット、その凄まじい人気に目を付けたアメリカ・ハリウッドとの共同資本で作られた『Enter the Dragon(燃えよドラゴン)』は、リー自身を世界的アクションスターに押し上げただけではなく、香港のカンフー映画という文化自体を世界に知らしめるほどの歴史的作品となった。その作品を世界で最も早く封切りした香港での公開日は1973年の7月26日。それでも、7月20日に飛び込んだリーの訃報からは、1週間ほどが経過していた。全世界を巻き込むヒットとなったアメリカでの公開日は8月17日、日本に至っては12月22日が公開日となった。全世界を熱狂させた“ニューヒーロー”は、その晴れ舞台に上がる前に、既に死んでいた——ブルース・リーの人生に勝るほど衝撃的なストーリーを、誰が創造できるというのだろうか。

(写真はWikipedia Bruce Leeより。Public Domain)

7月20日の不幸

1907年
【炭鉱事故】「豊国炭鉱爆発事故」

福岡県田川郡糸田町にあった豊国炭鉱で爆発事故が発生。死者・行方不明者365人を出した明治期最悪の炭鉱事故。

1944年
【暗殺未遂】「ヒトラー暗殺未遂事件(7月20日事件)」

第二次世界大戦中のナチス政権下のドイツで、ヒトラー暗殺事件が発生。戦況の悪化を背景に、主謀者のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が総統大本営ヴォルフスシャンツェ会議室で爆弾を爆発させたが、ヒトラーは軽傷に終わり、翌日捕らえられたシュタウフェンベルク大佐は即日死刑となった。

1973年
【ハイジャック】【航空事故】「ドバイ日航機ハイジャック事件」

1972年5月30日に「テルアビブ空港乱射事件」に関与したとして国際指名手配を受けていた日本赤軍の丸岡修ら5人とパレスチナ解放人民戦線の合同部隊が、パリ発羽田行きの日本航空機404便が経由地のアムステルダム空港で犯人の一人が誤爆死したことをきっかけにハイジャックされた事件。犯行グループはイスラエル政府に対し「テルアビブ空港乱射事件」で逮捕された岡本公三の釈放と現金500万ドルと、レバノンもしくはシリアへの逃亡を要求したが、両国が拒否したためにアラブ首長国連邦のドバイ国際空港に着陸。そこで改めて犯行グループから日本航空に対し40億円の身代金と、逮捕されていた日本赤軍構成員2人の釈放が要求されたが、3日を経過しても交渉はまとまらず、犯行グループは人質150人を解放し同機を爆破。カッザーフィー大佐が治めるリビアの協力を得て国外逃亡をした。

1973年
【急死】ブルース・リー(Bruce Lee/李小龍)【武道家・俳優/香港・アメリカ合衆国】

1971年に公開された初主演映画『The Big Boss(ドラゴン危機一発)』というたった一作で香港きってのアクションスターに登り詰め、アメリカ・ハリウッドとの共同資本で作られた1973年の映画『Enter the Dragon(燃えよドラゴン)』で世界初のカンフー映画スターとなったアクション俳優。自ら截拳道を創始した武道家としても活動した。世界的出世作である『Enter the Dragon(燃えよドラゴン)』を最速で封切りした香港での公開日である7月26日には既に死亡していた。1973年7月20日に映画『死亡遊戯』で共演する予定であった女優、ベティ・ティン・ペイの香港の自宅で頭痛を起こし、鎮痛剤を服用し寝ると、そのまま昏睡状態となり、搬送されたが病院で死亡。死因は脳浮腫と発表されたが、後年、鎮痛剤へのアナフィラキシーショックであったとみられている。没年32歳。

1993年
【自殺】ビンス・フォスター(Vince Foster)【弁護士・官僚/アメリカ合衆国】

ビル・クリントン元アメリカ大統領と幼なじみの人物であり、後にヒラリー・クリントンが務めるローズ法律事務所に勤務していた弁護士。1993年にクリントン政権の大統領次席法律顧問に就任するも、同年7月20日にヴァージニア州のフォート・マーシー公園で口の中に銃弾が貫通し死亡しているところを発見された。その手にはコルト銃が握られていたため、自殺と認定された。没年48歳。クリントン政権を見舞ったホワイトウォーター疑惑の証拠隠蔽のために殺されたという噂も出たが、真相は不明。

1993年
【早世】津田恒実【プロ野球選手】

南陽工高を卒業し1981年にドラフト1位で広島カープに入団した右手オーバースローの剛球投手。初年度に先発投手として11勝を挙げ新人王を獲得。しかし翌年血行障害に悩まされ、中指人体の摘出手術、改名(恒美→恒実)等、様々な試行錯誤の期間を経て1986年からリリーフ投手として復活。22セーブを挙げチームの5回目となるリーグ制覇に貢献した。1989年に28セーブを挙げ最優秀救援投手賞を獲得、日本を代表する押さえの切り札として定着し"炎のストッパー"の異名で呼ばれた。1990年に各所の故障で4試合のみの登板に終わり、頭痛を自覚し始め、翌1991年に4月14日の巨人戦の8回にリリーフ登板。原辰徳に同点タイムリーを浴びたった9球で降板したが、これが生涯最後の当番となった。翌日脳腫瘍を判明し、球団は「水痘症」により引退と発表。以降闘病生活に入り、一時は復帰へのトレーニングを開始するほどの回復を見せたが、1993年に死亡した。没年32歳。