『エンゲルベルト・ドルフース暗殺を報じる「TIME」誌9月25日号』

1933年7月25日はオーストリア第一共和国の首相、エンゲルベルト・ドルフースがオーストリア・ナチス党員により暗殺された日である。
この事件を契機に、第二次世界大戦直前のオーストリアは、ナチス・ドイツによるオーストリア併合『アンシュルス』へと、極めて自主的に向かってゆくことになった。ナチス・ドイツのオーストラリア併合を快く思っていなかったイタリアのムッソリーニ首相の援助を受け、オーストリアの国家としての存続を願いオーストラリア・ナチス党の活動を非合法化したドルフースであったが、オーストリアの国民自体はドイツへの併合を熱烈に支持。その歓迎ぶりは侵略を思い止まっていたヒトラーの予想を遙かに上回るもので、かつて同じドイツ語圏国家でありながらも、異民族を廃する“小ドイツ主義”により19世紀にプロイセン帝国に切り離されたオーストリアであったが、かつての大国ドイツ時代への郷愁は全国民的なものであった。国家の消滅を憂う一部の指導者層の悲嘆は、全く自国民と共有されていなかったのである。現在知られている世界地図が、この数十年に書きかえられた新しいものでしかないことを表わす象徴的なエピソードであるといえるだろう。

(画像はWikipedia Engelbert Dollfussより使用。Public Domain)

7月25日の不幸

1694年
【死去】菱川師宣【浮世絵師】

『見返り美人図』等後世に残る名画の数々を残し、江戸期に隆盛する浮世絵の礎を築いた"初の浮世絵師"。本の挿絵的な役割でしかなかった浮世絵版画を独立した芸術の域にまで高め、世界美術史にその名を残した。 元禄7年6月4日(西暦1694年7月25日)に死亡。没年齢は年64〜65歳、もしくは77歳と定かではない。

1863年
【急死】緒方洪庵【医師・蘭学者・武士】

備中国足守藩士の家に生まれ、江戸、長崎での留学を経て大坂に蘭学の私塾、適塾を開き大村益次郎、福沢諭吉ら数々の後進を育てた教育者。また、日本初の医学書『病学通論』を記し、種痘(予防接種)により天然痘治療に絶大な貢献を果たした"日本の近代医学の祖"としても知られる人物。江戸医学所頭取役の家で突然血を吐いて窒息死。没年52歳。

1929年
【急死】牧野省三【映画監督・実業家】

京都の芝居小屋大野座を買収し、映画劇場「千本座」として経営を始めたことがきっかけで自ら映画製作を開始。1908年の『本能寺合戦』を皮切りに、『忠臣蔵』シリーズを始めとした時代劇映画を製作し、生涯300本以上の映画を手がけた"日本映画の父"。実子のマキノ雅弘、そして孫にあたる長門博之、津川雅彦兄弟など、映画ビジネスに輝かしい足跡を残したマキノ一家の始祖とも呼ばれる人物である。心臓麻痺により50歳没。

1974年
【死去】花菱アチャコ【漫才師・喜劇俳優】

横山エンタツとの漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」との"しゃべくり漫才"で一世を風靡した"漫才ブームの祖"。1934年にコンビ解消後も吉本興行の一枚看板としてラジオ、映画、舞台にと大活躍し、同社創設期を牽引したバラエティ・タレントだった。直腸ガンで75歳没。

1978年
【死去】古賀政男【作曲家】

『丘を越えて』『湯の町エレジー』『無法松の一生』『東京五輪音頭』『柔』等、1930年代〜1960年という戦前戦後期に"古賀メロディー"と呼ばれる国民的ヒット曲を数多く手がけ、昭和歌謡、ひいては日本ポップミュージックの礎を築いた作曲家。生涯の作曲数は5,000曲以上とも言われている。日本作曲家協会初代会長を務め、服部良一らとともに『日本レコード大賞』の創設にも関わった。冠状動脈硬化症の悪化で74歳没。死後の8月4日に史上二人目となる国民栄誉賞を追贈された。

1986年
【死去】ヴィンセント・ミネリ(Vincente Minnelli)【映画監督・アメリカ合衆国】

『若草の頃 』『巴里のアメリカ人』等数々のミュージカル映画を手がけたハリウッドの映画監督であり、1958年の『恋の手ほどき』でアカデミー監督賞を受賞した人物。私生活では女優のジュリー・ガーランドの2番目の夫として知られ、彼女のとの間に歌手・女優のライザ・ミネリを設けた。没年83歳。