『「テキサスタワー乱射事件」発生中に旗の台座に隠れる女性』

1966年8月1日は、『テキサスタワー乱射事件』によりのテキサス大学オースティン校で15人が殺害された日である。
犯人のテキサス大学大学院生チャールズ・ホイットマンは、28階建ての校舎の上にある時計塔にカービン銃、ライフル等を持ち込み、93メートルの高さから無差別に眼下の通行人を射撃し始めた。ホイットマンは元海軍に所属していた一級射手で、高地からの攻撃には警察も手が出せず、93分もの間、その狂気の銃弾の雨は止むことがなかった。その恐怖は、遠くに死体が転がる前で必死に台座に隠れているこの写真からもよくわかる。結果的には地下水道から侵入した警官がホイットマンを射殺して事件は解決したが、15人の死者と31人の負傷者を出し、1999年4月20日の「コロンバイン高校銃乱射事件」が発生するまでの最悪のスクール・シューティング事件だった。裕福な家庭の好青年と見られていたホイットマンが犯行に及んだ理由は定かではないが、父親による幼少期からの体罰、もしくは脳にできていた腫瘍がひどい頭痛を与えていたこと等が、発作的な暴力衝動を生んだのではないかとみられている。そして、この事件の犠牲者はまだ存在した。ホイットマンは犯行前の深夜に、自らの妻と母を射殺していたのだ。事件後のそれぞれの人生の苦難を考えての射殺であったというが、果たして、このアメリカ史上に残るスプリーキラーは、何を守るために虐殺に出かけなくてはならなかったのだろうか。

(写真はWikipedia University of Texas tower shootingより使用)

8月1日の不幸

1966年
【スクールシューティング】【大量殺人】「テキサスタワー乱射事件」

テキサス大学オースティン校の28階建ての校舎の上にある時計塔にテキサス大学大学院生チャールズ・ホイットマンがカービン銃、ライフル等を持ち込み、93メートルの高さから無差別に眼下の通行人を射撃。ホイットマンは元海軍に所属していた一級射手で、高地からの攻撃には警察も手が出せず、93分もの射撃で15人の死者と31人の負傷者を出し、1999年4月20日の「コロンバイン高校銃乱射事件」が発生するまでの最悪のスクール・シューティング事件だった。結果的には地下水道から侵入した警官がホイットマンを射殺して事件は解決。裕福な家庭の好青年と見られていたホイットマンが犯行に及んだ理由は定かではないが、父親による幼少期からの体罰、もしくは脳にできていた腫瘍がひどい頭痛を与えていたこと等が、発作的な暴力衝動を生んだのではないかとみられている。またホイットマンは犯行前の深夜に、自らの妻と母も射殺していた。

1990年
【獄中死】グレアム・ヤング(Graham Frederick Young)【写真店員/イギリス】

14歳で継母を毒殺し、続いて父と姉妹、友人も毒殺しようとしたことが露見し逮捕。精神病院に15年収監されたが、9年後に社会復帰。その後は写真店に勤め始めるも、店主ボブ・イーグルを毒殺。その後も70人もの関係者に毒を盛り、同僚フレッド・ビッグスも毒殺した後、1971年11月21日に逮捕された。終身刑を言い渡され、1990年にパークハースト刑務所の独房にて獄中死。没年42歳。死因は心臓発作と発表されたものの、服毒自殺、他殺という噂もある。死亡後の2005年10月31日に静岡県の16歳の女子高生が、母親をタリウム等で毒殺しようとして逮捕された「静岡母親毒殺未遂事件」に影響を及ぼした殺人犯であるともいわれている。

1997年
【死刑】永山則夫【小説家】

アメリカ海軍横須賀基地に侵入し、拳銃と弾丸50発等を窃盗後の1968年〜1969年にかけて「連続ピストル射殺事件」で4人を殺害し、1969年4月7日に逮捕。その後獄中で1971年に『無知の涙』『人民をわすれたカナリアたち』を出版。1983年の小説『木橋』では第19回新日本文学賞を受賞するなど、小説家として活躍した。1997年8月1日に死刑執行。没年48歳。死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が設立され、その印税は貧しい子供たちに寄付されている。

2003年
【殺人】マリー・トランティニャン(Marie Trintignant)【女優/フランス】

俳優のジャン=ルイ・トランティニャン、映画監督のナディーヌ・トランティニャンの間に生まれ、4歳の頃から母ナディーヌの作品にデビューした女優。2003年の映画『Janis et John(歌え! ジャニス★ジョプリンのように)』出演後、リトアニア滞在中に、当時交際していたフランスのロックバンド「Noir Désir」のヴォーカリスト、ベルトラン・カンタと口論の末、殴打されそのまま放置された。その後パリに搬送されたがヌイイ=シュル=セーヌの病院にて脳浮腫で死亡。没年41歳。カンタは過失致死罪により懲役8年となったが、収監から3年後の2007年に仮出所した。

2007年
【死去】阿久悠【作詞家・小説家】

広告代理店勤務、コピーライター、放送作家などの職業を経て作詞家に。生涯5,000曲以上の作品で作詞を手がけ、昭和期の日本を代表する空前のヒットメーカーとなった人物。『また逢う日まで』『北の宿から』『勝手にしやがれ』『UFO』『雨の慕情』『もしもピアノが弾けたなら』等、数々の大ヒット曲を多ジャンルの人気歌手に提供し続けた。また、1984年に映画化された『瀬戸内少年野球団』を始めとした多くの小説作品も手がけている。2001年に腎臓ガンと診断され、9月12日に摘出手術を受けた。その後も活動を続けていたが、2007年8月1日午前5時29分、尿管ガンで死去。没年70歳。

2009年
【死去】コラソン・アキノ(Corazón Aquino)【政治家/フィリピン】

フィリピン大統領フェルディナンド・マルコスに対抗したベニグノ・アキノ・ジュニア上院議員の妻であり、1983年8月21日に夫が暗殺されて以降は夫の意志を継ぎ大統領選に立候補。その選挙でも不正を働いたマルコスに代わり、フィリピン共和国第11代大統領に就任した人物。1987年2月に新憲法を制定し、国民からの圧倒的支持をバックに、市民の自由と人権に配慮した政策を推し進めた。1992年に任期満了で退任。2008年3月に結腸ガンを公表し、2009年8月1日に死亡。没年76歳だった。死後の2010年に発行された新500ペソ紙幣にはアキノ夫婦の肖像が使用されている。