『ボブ・ディラン作「George Jackson」のレコードジャケットと、刑務所内のジョージ・ジャクソン』

1971年8月21日は、ブラックパンサー党の活動家で、共産主義者のジョージ・ジャクソンが脱獄中に射殺された日である。
その死が、同年9月9日の「アッティカ刑務所暴動」の原因になったとされ、マルコムX、マーチン・ルーサー・キング・ジュニアらにより黒人公民権運動が広く知られるようになった当時において、世界的な影響力を持った事件であった。そしてその世界的波及に大きな役割を果たしたのが、当時世界的な影響力を持っていたミュージシャン、ボブ・ディランの楽曲『George Jackson』である。11月12日に発売された同曲はその歌詞の中で「世界が大きな牢屋なのかもしれない(Sometimes I think this whole world Is one big prison yard. Some of us are prisoners the rest of us are guards.)」と歌い、黒人活動家との共闘を表明したのだった。
余談ではあるが、ジョージ・ジャクソンの射殺劇からボブ・ディランの音源のリリースまで、約3カ月。当時としては大至急で進められたと言われるリリースにそれだけの時間がかかっているのである。もし現在のように、誰もがネット経由で即座に発信できる環境にあったら、ディランの曲は、何日で世界に発信されただろうか? そしてそれが数日であったなら、9月9日に起きた悲劇も未然に防がれていたのであろうか?

(写真はボブ・ディラン『George Jackson』1971年11月12日発売/コロムビア)

8月21日の不幸

1911年
【盗難事件】「『モナ・リザ』盗難事件」

パリのルーヴル美術館に展示中のレオナルド・ダ・ヴィンチ作の絵画『モナ・リザ』が盗難される事件が発生。詩人のギヨーム・アポリネールに嫌疑がかかり投獄され、パブロ・ピカソにも嫌疑がかけられたがともに無罪と判明。盗難から2年後に元スタッフであったイタリア人、ビンセンツォ・ペルージャがイタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館に売却しようとして逮捕された。イタリア愛国者であったペルージャはダ・ヴィンチの作品がフランスに収蔵されていることに我慢がならなかったとその動機を語った。

1940年
【暗殺】レフ・トロツキー(Leon Trotsky)【革命家・政治家・思想家・編集者/ソ連】レ−ニンを中心としたソヴィエト連邦成立の中心部にいながら、レーニンの死後に権力を握ったスターリンとの権力闘争に敗れ、まずはトルコに亡命、その後フランス、ノルウェーを経て最終的にはメキシコで、その"トロツキズム"と呼ばれる自らの思想に基づいたソ連の在り方を発信し続けた革命家。パリに留学していた息子が殺害された後に、秘書の恋人になりすましたスペイン共産党員のラモン・メルカデルに、ピッケルで暗殺された。没年60歳。
1965年
【事故死】【早世】浮谷東次郎【レーシングドライバー】1960年代の日本グランプリなどで活躍した日本におけるモータースポーツ創成期のスター・ドライバー。若くしてアメリカ留学し、私家版の著書『がむしゃら1500キロ』が筑摩書房から文庫化されるなど、文化的にも若者たちの支持を集めた。1965年8月20日の鈴鹿サーキットでの練習走行中にコース上を歩いていた人間を避けようとして水銀灯に衝突。意識はあったものの、両足を骨折し頭部を強打。翌日に脳内出血で死亡。没年23歳。
1971年
【射殺】【早世】ジョージ・ジャクソン(George Jackson)【活動家/アメリカ】ブラックパンサー党の活動家で、共産主義者。刑務所内でマルクス主義と毛沢東思想に感化され、ブラック・ゲリラ・ファミリーなるギャング団を結成。さらにブラックパンサー等に入党し、所内から論文を寄稿するなどして党指導者になったが、1970年に脱獄を図り、看守を殺害した罪で死刑判決を受ける。翌年再びサン・クエンティン州立刑務所から脱獄を謀るが、警備員により銃殺。その死が同年のアッティカ刑務所暴動の原因になったとされる。没年29歳
1978年
【死去】チャールズ・イームズ(Charles Ormond Eames, Jr)【デザイナー・建築家・映像作家/アメリカ】妻のレイとともに作り上げた椅子に代表される家具や映像作品で、20世紀中盤のデザイン界に革命を起こしたデザイナー。ハーマンミラー社との共作でも知られる。代表的な映像に『SX-70』『Powers of Ten』等。故郷のセントルイスへの帰省中に心臓発作で死去。没年71歳。
1979年
【死去】ジュゼッペ・メアッツァ(Giuseppe Meazza)【サッカー選手/イタリア】1920年代〜1940年代にかけて、主にインテル・ミラノで活躍したカルチョの伝説的ストライカー。ユベントス、ACミランにも在籍し、イタリアの3大クラブの全てでプレイした希有なプレイヤーでもある。1934年、1938年にワールドカップ連覇を遂げたイタリア代表チームの主力でもあった。没年68歳。死後、インテルとACミランのホームスタジアムが"スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ"と名付けられた。
1988年
【死去】レイ・イームス(Ray-Bernice Alexandra Kaiser Eames)【デザイナー・建築家・映像作家/アメリカ】夫のチャールズとともに作り上げた椅子に代表される家具や映像作品で、20世紀中盤のデザイン界に革命を起こしたデザイナー。夫の死のちょうど10年後に死去。没年75歳。
1993年
【死去】藤山一郎【歌手】東京音楽学校予科声楽部を首席で卒業し、『丘を越えて』『東京ラプソディ』『青い山脈』当数々のヒット曲で国民的人気を誇った歌手。1992年に国民栄誉賞を受賞。急性心不全で82歳没。
2010年
【死去】梨元勝【芸能リポーター】昭和のテレビ、雑誌、新聞の芸能ニュースを担当し、芸能リポーターという職業イメージを決定付けた人物。「恐縮です」のフレーズで知られる。肺ガンで61歳没。
2011年
【死去】竹脇無我【俳優】

テレビドラマ『姿三四郎』の主演で一躍スターになった俳優。公私ともに親交の深かった森繁久彌作品への出演でも知られる。晩年は鬱病に苛まれ自殺願望を抑えるために飲酒に頼るなど、不安定な生活を送った。小脳出血で67歳没。