『ベッシー・スミスのポートレート』カール・ヴァン・ヴェクテン撮影

1937年9月26日は、1920年代から活躍した偉大なブルース・シンガー、ベッシー・スミスが交通事故死した日である。
“Empress of the Blues(ブルースの女帝)”という呼び名をほしいままにした当時では世界で最も有名なブルースシンガーの一人であったベッシーは『セントルイス・ブルース』等数々のヒット曲で後世にまで影響を残す人物であった。しかし、彼女の最後は、その輝かしい功績に不釣り合いなほど悲劇的なものであった。1937年9月26日にベッシーの身を襲ったのは、彼女が右手を切断するほどの激しい追突事故ではあったが、その命には影響しないほどの容体であったといわれ、彼女が命を落としたのは、搬送先の病院が黒人である彼女を受け入れず、治療までに時間がかかりすぎたからとされている。当時のアメリカは医療に於いても歴然と黒人と白人の棲み分けを行なっており、ベッシーの死はその時代が招いた悲劇であったといえるだろう。そして彼女の墓にその名が刻まれたのは、ベッシーの死から33年が経過した1970年8月7日になってからであり、その墓石を購入したのは、稀代の白人ブルース・シンガー、ジャニス・ジョプリンらであった。さらにこの悲しい物語には続きがある。偉大な先人の供養を終えたジャニスは、そのわずか2カ月後に急死することになるのだ。果たしてそれは、ブルースに捧げた彼女が、その人生の務めを果たしたからといえるのだろうか?

(画像はWikipedia Bessie Smithより使用。Public Domain)

9月26日の不幸

1902年
【死去】リーバイ・ストラウス(Levi Strauss)【実業家/ドイツ・アメリカ】リーバイス創設者。ユダヤ系ドイツ人移民として家族とともにアメリカに渡り、稼業を発展させて世界で初めてブルージーンズを製造・販売した会社リーバイスを立ち上げた。73歳没。
1904年
【死去】小泉八雲(ラフカディオ・ハーン/Patrick Lafcadio Hearn)【小説家・民俗学者/英領ギリシャ・日本】

日本の怪談を英訳した『怪談』を出版するなど、明治期の日本で活動し日本を研究した民俗学者。ジャーナリストとして活動後の1890年にアメリカの出版社の通信員として来日し、その後日本で英語教師として活動。1891年にはセツと結婚、1896年には日本国籍を取得し小泉八雲と名乗った。東京帝国大学退、早稲田大学の講師を歴任し、1904年9月26日に東京の自宅にて狭心症で死亡。54歳没。

1937年
【交通事故死】ベッシー・スミス(Bessie Smith)【歌手/アメリカ合衆国】

1920年代〜1930年にかけて活躍したアメリカを代表するブルース・シンガー。"Empress of the Blues(ブルースの女帝)"という呼び名をほしいままにした当時では世界で最も有名なブルースシンガーの一人であったベッシーは『セントルイス・ブルース』等数々のヒット曲で後世にまで影響を残す人物であった。1937年9月26日に右手を切断するほどの激しい自動車追突事故で、治療までに時間がかかりすぎたために死亡。没年43歳。

2008年
【死去】ポール・ニューマン(Paul Newman)【俳優/アメリカ】20世紀のアメリカを代表する俳優。交通事故死したジェームス・ディーンの代わりに主演した『傷だらけの栄光』で一躍スターダムにのし上がると、『ハスラー』『明日に向って撃て!』『タワーリング・インフェルノ』等、数々の大ヒット作に出演し、2007年に81歳で俳優業を引退するまで常に第一線で活躍し続けた。44歳でデビューし1979年のル・マン24時間レースで2位に入るなどカーレーサーとしても成功を収めた。肺ガンで83歳没。
2014年
【死去】香川伸行【プロ野球選手】南海ホークス、ダイエーホークスで活躍した元プロ野球選手。浪商高校時代に組んだ牛島和久とのバッテリーで甲子園で活躍し、ともにプロ入り(牛島はロッテに入団)。体重100キロを遙かに超える肉体と強打で、"ドカベン"の愛称で親しまれるキャッチャーだった。引退後は解説者やアマチュアの指導者というほかに、居酒屋経営等にも進出したが、後に自己破産。急性腎不全で手術を受けるなど晩年には体調が悪化し、心筋梗塞で自宅にて死亡した。没年52歳。