『1973年ドイツグランプリでのフランソワ・セベール』(撮影/ライモント・クンマー)

1973年10月6日、そして1974年の同日は、アメリカのサーキット、ワトキンググレンで行なわれたF1アメリカグランプリにおいて、2年連続で衝撃的な死亡事故が起きた日である。
まずは1973年、フランスの国民的なアイドルスポーツ選手にして将来を嘱望されたレーシングドライバーであったフランソワ・セベールがエセルと呼ばれるコーナーにおいて死亡した。
セベールは当時のF1チャンピオンであったジャッキー・スチュアートと同じティレルに所属し、自他共に認める師弟関係を結んでいた。
1973年もジャッキー・スチュアートは順調にポイントを獲得し、最終アメリカグランプリを待たずしてシーズン優勝を決めており、愛弟子のセベールの成長を認めたこともあり、そのシーズンでの引退を決意していた。そのため、10月6日のアメリカグランプリでは、「セベールに優勝を譲り、後継に道を譲るチャンピオン」というシナリオがティレルのチーム内ではできあがっていたという。
しかし、そのような目論見は一切セベールには伝えられていなかったために、「ティレルが来シーズンのドライバーとしてジョディー・シェクターと契約を交わした」というニュースも相まって、自らの進退を危ぶんだセベールは必死のレースを見せる。
予選4位に付けていたためにチームは制止したが、本人の意志でさらなるタイムアタックに出たセベールは、そして第1コーナーとバックストレートの間のエセスで、スピード超過でコースアウト。コース脇のガードレールに落下し、セベールは股から鎖骨にかけて、真っ二つに裂かれるようにして死亡していたという。
この余りに衝撃的なセベールの死を見て「屠殺場のようだった」とショックを受けたジャッキー・スチュアートは、レース本戦に出ることなく引退をしたのだった。
レース前に「こんないい天気の日だから死にたくない」と語っていた若きレーサーの悲劇的な死には様々な憶測があるのだが、スチュアートは「エセスに突入するセベールの視界に後続のシェクターが入っていたことも原因のひとつ」と語り、事前に自らの引退を告げていなかったことを公開したという。
そしてその翌年、F1デビューシーズンを戦っていたオーストラリアのヘルムート・コイニグが、同じくワトキンググレンのアメリカグランプリの本戦で、コースアウト後にガードレールによって首が切断されるというF1史上でも2度目の残酷な事故死を遂げた。
予選と本選という別の状況でありながら、同日・同所でこのような悲劇が連続したというケースは、他に例を見ない。

(写真はWikipedia François Cévert より使用)

10月6日の不幸

1年
準備中
1962年
【死去】トッド・ブラウニング【映画監督/アメリカ】ユニバーサル、メトロ・ゴールディン・メイヤー等から60本以上もの映画作品を手がけ、20世紀前半の映画草創期に活躍した映画監督。代表作に『魔人ドラキュラ』等があるが、実在の奇形芸人たちを起用した復讐劇映画『フリークス』を監督したことにより、業界内外から批判が殺到し、事実上このカルト作品により映画人としてのキャリアを失う。晩年はマリブに移住し、友人宅の洗面所で死亡しているところを発見された。没年82歳。
1973年
【事故死】フランソワ・セベール(François Cévert)【レーシング・ドライバー/フランス】"フランスのジェームス・ディーン"という甘いマスクで人気を博し、ブリジット・バルドーとの交際でも話題を呼んだ国民的人気F1ドライバー。1971年に自身の初優勝を挙げたアメリカのサーキット、ワトキンググレンで行なわれたF1アメリカグランプリの1973年開催大会予選においてコースアウト。ガードレールに落下し、股から鎖骨にかけて、真っ二つに裂かれるようにして死亡。没年29歳。
1974年
【事故死】ヘルムート・コイニグ(Helmut Koinigg)【レーシング・ドライバー/オーストリア】ブラバム、サーティースという2つのチームからF1参戦。サーティース移籍後のカナダグランプリで予選を始めて通過し、F1デビュー。続くアメリカグランプリも予選通過となったが、本戦10週目にサスペンションのトラブルでコースアウト。三段ガードレールによって首が切断されるF1史上でも2度目の残酷な事故死を遂げた。没年25歳。