『1910年のジョアン・ガスパール』

1930年10月13日は、「more than just a football club(フットボールクラブ以上のもの)」というキャッチフレーズで知られる世界最大のフットボールクラブのひとつ、FCバルセロナの創設者のひとり、ジョアン・ガスパールが自殺により死亡した日である。
スイスのバーゼルやFCチューリッヒで活躍したガスパールは、引退後、ビジネスマンとして訪れたバルセロナに滞在中に出会った現地の女性と結婚し、そこに移住することになった。
そこでフットボールに興じるうちに、1989年にバルセロナを体現するクラブFCバルセロナを1989年にチームを設立。最初は、自身もチームでもプレイした。
バルセロナでの引退後は同クラブの会長として、創成期の同クラブを牽引。
3年後に立ち上げられたもうひとつのスペイン最大のクラブ、レアルマドリードがスペイン国王の庇護の元に莫大な資金で運営されていたことに対し、企業スポンサーを持たない、ソシオ(会員)からの出資のみによって運営されるという、“市民のクラブ”としてのアイデンティティーを掲げ、スペイン王政に対するバルセロナ、カタルーニャ地方を象徴するクラブとなっていった。
しかしその晩年の1925年、独立を掲げる地域をスペイン王政は激しく弾圧。軍事政権を行なっていた軍人ミゲル・プリモ・デ・リベーラにより、カタルーニャ独立支持者であったガンペールは目を付けられ、6カ月間のスタジアム使用禁止処分に。
その影響もあってガンペールは金銭問題を抱え、鬱病の果てに、1930年10月13日の自殺への道を辿ることになった。
いまやメッシ、ネイマールを筆頭に世界中のスター選手が所属し、多くのファンへ煌びやかな夢を提供しているFCバルセロナにも、暗い《死の歴史》は存在するのだ。

(写真はWikipedia Joan Gamperより使用。Public Domain)

10月13日の不幸

1974年
【死去】エド・サリヴァン(Edward Vincent Sullivan)【テレビ司会者/アメリカ】スポーツ新聞記者から日曜夜のバラエティ番組『トースト・オブ・ザ・タウン』の司会に転身。その番組が後に『エド・サリヴァン・ショー』として改名、1948年〜1971年まで、エルヴィス・プレスリー、ビートルズ等々、その時々のスーパースターが出演するアメリカを代表するテレビ番組となった。視聴率低下で番組終了後たった3年で食道ガンのため死亡。没年73歳。
1988年
【事故死】【競技中の死亡事故】マイク・ベネツィア(Michael Joseph Venezia)【競馬騎手/アメリカ】現役生活25年で2,313勝を挙げたニューヨーク出身のジョッキー。1974年には日本の競馬界でも活躍。引退を考えていた矢先の1988年10月13日に行なわれたベルモント競馬場の第5レースで落馬し、後続の馬に頭部を蹴られて死亡した。没年43歳。
1992年
【事故死】 太地喜和子【女優】高校生の頃に東映ニューフェイスに合格し女優デビュー。卒業後、文学座に入団し、1968年の新藤兼人監督作品『藪の中の黒猫』で一躍スターに。舞台、映画、テレビドラマとあらゆるジャンルで活躍する本格的な女優として活躍、同じく文学座のスターである"杉村春子の後継者"と言われた。静岡県伊東市で舞台『唐人お吉』を公演している期間中に、1992年10月13日深夜2時頃、自動車での走行中に桟橋から海に転落。同乗者2名は泳いで一命をとりとめたが、大量に飲酒をしていた太地は溺死した。没年48歳。
2000年
【早世】藤井将雄【プロ野球選手】地元福岡生まれの、福岡ダイエーホークスの右腕投手。ホークスが福岡移転後初のリーグ優勝を遂げた1999年には中継ぎ投手として26ホールドを記録して最多ホールドを獲得。日本シリーズ直前の身体検査で余命3カ月の末期肺ガンであることが判明(本人には告知されず)。シリーズ後入院し、翌年は退院して2軍で投球するまでに回復したが、2000年にチームが2連覇を見届けた後に死去。没年31歳であった。
2006年
【事故死】【競技中の死亡事故】橋本和美【オートレース選手】川口オートレース場所属の26期生。通算勝利数126勝、通算優勝回数3回と将来を嘱望されるレーサーであったが、2006年10月13日開催の平成18年度埼玉県営第2回第2節初日のレース前のスタート練習で落車、後続の阿部剛士に激突されて頸椎損傷で死亡した。没年27歳。
2013年
【死去】やなせたかし【漫画家】高知新聞編集部、三越宣伝部を経てマンガの道に。1969年に発表した絵本『アンパンマン』が1988年に『それいけ! アンパンマン』としてアニメ化して大ヒット。死亡する直前まで活動を続けたが、心不全で93歳没。