『1963年の朴正煕と1903年の伊藤博文(右)』

10月26日は日本初の内閣総理大臣にして初代韓国府統監の伊藤博文がハルピンで暗殺された日であり、第5代韓国大統領であった朴正煕が暗殺された日である。両者が死亡した日の間にはちょうど70年もの歳月が流れているが、伊藤は4期、朴は5期と、両者ともに歴代最長規模の施政を行なった政治指導者であり、韓国の地で銃弾に倒れたということも共通している。
まず1909年の10月26日に、初代韓国統監を2カ月前に辞任した伊藤が、ロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するために訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根に銃殺された。そしてそれから70年後の同日、ソウル市内のKCIA(大韓民国中央情報部)施設内で秘密裏の宴会を行なっていた朴がKCIA部長であり側近であった金載圭によって、これまた側近であった車智澈とともに射殺された。無論この二つの暗殺事件に因果関係は見つかってなどいないが、ともにその後の両国の歴史を決定づけた政治的分岐点であり、日韓両国にとって《暗殺》といえば10月26日を指すといっても過言ではないだろう。

(写真はWikipedia 伊藤博文・朴正煕より使用。Public Domain)

10月26日の不幸

1908年
【死去】榎本武揚【政治家・幕臣】

戊辰戦争で旧幕府軍を率いた幕臣であり、海軍指揮官。蝦夷地を占領後は蝦夷共和国の総裁も務めた。箱館戦争で敗北後は明治政府に仕え、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約の締結に携わり、内閣制成立後は、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣等の要職を歴任した。1905年10月19日、海軍中将を退役、1908年10月26日に腎臓病で73歳没。死後、海軍葬が行なわれた。

1909年
【暗殺】伊藤博文【政治家・藩士】

吉田松陰の私塾・松下村塾で学び、長州藩の藩士として幕末の尊皇攘夷・討幕運動、明治維新に参加。初代兵庫県知事を経て大日本国憲法の制定の中心人物として関わり、1885年12月25日に初代内閣総理大臣に就任した人物。その後も第5代・第7代・第10代と合計4期にわたり総理大臣を務めた他、初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監等も歴任し、日本の近代化に多大な貢献を果たした政治家。韓国統監辞任直後の1909年10月26日にロシアの蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するために訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根に銃殺された。没年68歳。現場を見ていたココツェフが当日日本大使館に送ってきた電報によると、その犯行は組織的であったとされている。

1979年
【暗殺】朴正煕(Park Chung-hee/パク・チョンヒ)【政治家・軍人/大韓民国】

韓国軍の少将を務める軍人時代、1961年4月の「四月革命」の軍事クーデターで大韓民国初代大統領・李承晩が失脚。同年5月16日に「軍事革命委員会」を結成し軍事クーデターを先導し、国家再建最高会議議長就任後の1963年12月17日に第5代韓国大統領に就任した人物。その後第9代まで5期16年にわたり韓国大統領の地位を占め続け、その任期中の1973年8月8日に「金大中拉致事件」で政敵であった金を葬ろうとし、さらには法改正で永久政権を握ろうとするなど、半独裁的な政権を築いた。大規模民主化デモ「釜馬民主抗争」勃発中の1979年10月26日に側近であり金大中拉致事件の実行部隊であったKCIA(大韓民国中央情報部)部長・金載圭によって射殺された。没年61歳。死後国葬が行なわれ、金は内乱罪で絞首刑に処された。

1981年
【死去】伴淳三郎【コメディアン・喜劇俳優】

"バンジュン"の呼び名で知られ、戦前・戦後の映画界で活躍した昭和期の人気コメディアンであり喜劇役者。定番フレーズの「アジャパー(元はアジャジャーにしてパーでございます)」が社会的な大流行となり、1953年には主役映画『アジャパー天国』が公開され大人気スターとなった。その他にも森繁久彌、フランキー堺との東宝映画『駅前シリーズ』などで絶大な人気を誇った。私生活では戦前から活動をともにした清川虹子と結婚していたことでも知られ(清川にとっては三度目の結婚)、1981年10月26日に食道静脈瘤破裂で死亡した際には清川虹子が身の回りの世話をし、葬儀での喪主も清川が務めた。没年73歳。

1989年
【事故死】浦辺粂子【女優・タレント】

日活京都撮影所や大映等に所属した女優として活躍し、生涯で300本以上もの映画作品に出演した人気個性派女優であり、晩年はテレビバラエティショー『ライオンのいただきます』で塩沢ときらとともに"おばあさんタレント"として人気を博した。1989年10月25日朝、東京都渋谷区にあった自宅でガスコンロの火が和服のたもとに引火し、全身に燃え移り、そのまま火だるま状態で道路に飛び出し昏倒。すぐさま病院に搬送されたが、翌日午前0時30分に全身大火傷を原因とした多臓器不全で死亡した。没年87歳。

2012年
【死去】桑名正博【歌手・実業家】

アメリカから帰国後の1971年にロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成しデビュー。1974年のバンド解散後にソロ活動を始め、1977年9月に大麻・コカインの使用で書類送検され、10月12日に麻薬取締法違反容疑で逮捕。懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けた。その直後の1979年に『セクシャルバイオレットNo.1』が60万枚以上を売り上げ、レコードチャート1位を記録する大ヒットを記録。1980年に当時人気絶頂の歌手・アン・ルイスと結婚。しかしその後も1981年にファンの女性への強制わいせつ致傷容疑(不起訴)、大麻取締法違反容疑を起こすなど、常にスキャンダラスな話題を振りまき、1984年には離婚した。その後も音楽活動の傍ら実家である江戸時代1830年創業の廻船問屋「桑名興業(桑文)」の社長に就任したが、2000年に倒産。2012年7月15日の早朝に脳幹出血を起こし、意識不明となり、そのまま同年10月26日に死亡した。没年59歳。

2014年
【死去】赤瀬川原平【美術家・作家・小説家・漫画家】

1960年頃から「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に加わり前衛芸術家として活動を開始し、千円札を200倍に拡大複写した『復讐の形態学』が通貨及証券模造取締法違反となり公判の結果、執行猶予つきの有罪となり、社会問題に。その後は漫画誌『ガロ』でマンガ家デビュー、さらには各雑誌媒体で連載を開始し、多岐にわたる活動を開始。尾辻克彦名義で純文学小説家としても活動し、『文學界』1980年12月号に掲載された短編小説『父が消えた』で、第84回芥川賞を受賞した。その後も『トマソン(無意味な建築物)』などの社会的流行展開したり、1996年の『新解さんの謎』、1998年の『老人力』がベストセラーを記録するなど、極めて独特な視線に基づいた企画を連発した。2011年に胃ガンを患い、胃の全摘手術を行なう。以降、脳出血や肺炎を患うようになり、療養に務めたものの、2014年10月25日の夜に急激に容体が悪化し、翌日敗血症で死亡した。没年77歳。実兄に直木賞を受賞した小説家の赤瀬川隼がいる。