『昭和天皇の京都大学訪問に殺到する2,000人もの学生たち』

1951年11月12日は、関西巡幸中の昭和天皇が京都大学に立ち寄った際、公開質問状を携えた全学学生自治会等を中心とした学生らが大挙して天皇を取り囲んだ『京大天皇事件』の発生した日である。
折しも終戦直後の混乱期、同年のサンフランシスコ平和条約締結などで国が揺れていた時期であり、学生運動も活発化していた中での事件であった。さらに、同校では事件以前の5月に『総合原爆展』を学園祭で成功させていたということもあり、天皇来校に際しても「もう一度同展を開催して天皇を迎えたい」という、天皇まで巻き込んだ反戦への気運が高まっていた。結果的に同展は開かれなかったものの、昭和天皇の来校に際して多くの学生たちがデモの機運をみせていたことは明かであり、当日はその熱気に押された野次馬的一般学生も巻き込んでの大混乱が発生することとなった。報道に拠ればこの事件の中でも昭和天皇はいつもと変わらない様子にあったといわれ、事件後は、計画的にデモを主導した8名が無期限停学処分となったものの、比較的軽い処罰がとられた。しかし、国会でも「不敬事件」として扱われるなど、社会的な影響力は絶大であった。そして、2,000人の学生により天皇が囲まれるということ自体、天皇制に異を唱えることすらタブー化されている現在の日本からみれば、たった60年前に起きたとは思えないような"事件"である。現在の天皇制が成立してきた道のりの、ひとつのサブテキストとして、この事件は記憶されるべきであろう。

(写真はWikipedia 京大天皇事件より使用。『毎日グラフ』1951年12月1日号/毎日新聞社刊 Public Domain)

11月12日の不幸

1898年
【死去】ジョン万次郎【通訳・教師】本名・中浜万次郎。14歳の時家族の手伝いで漁に行ったところ伊豆諸島あたりに遭難。アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救出され、そのままアメリカで航海、測量などを学ぶ。ジョンは救出された船にちなんだその頃の仇名。その後琉球に上陸し帰国。土佐藩で造船や航海について指南した後に江戸では旗本として取り立てられる。藩校の教授や勝海舟率いる遣米使節団の通訳として重用された。72歳没。
1970年
【自然災害】「ボーラ・サイクロン」1970年11月12日にベンガル湾に上陸した史上最大の被害サイクロンが東パキスタンのボーラ地方を直撃。最低でも20万人、最大で50万人もの人命が失われた。近代における世界の自然災害の中でも最悪のものといわれ、この災害対策に遅れたパキスタン中央政府を非難した東パキスタンが翌月の選挙で圧勝を収めると、「バングラデシュ独立戦争」にまで発展、その結果、翌年にはバングラデシュが国家として独立するという事態にまで発展した。
1988年
【死去】草野心平【詩人】福島県の詩人。慶應義塾大学を中退し、中国の広東嶺南大学(現中山大学)に留学中に詩作を始める。全篇カエルをテーマにした詩集『第百階級』でデビュー。中原中也と詩誌『歴程』を創刊、編集に携わる等長年にわたる詩への貢献で1987年に文化勲章を受章。85歳没。
1994年
【死去】ウィルマ・ルドルフ(Wilma Glodean Rudolph)【陸上競技選手/アメリカ】1960年ローマオリンピックで女子100メートル走、女子200メートル走、女子4×100メートルリレーの3つの競技で金メダルを黒人女性として初めて獲得した選手。通称"黒い真珠"と呼ばれたスーパースターであったが、22歳で引退。以降は後進の育生やスポーツ基金の設立に携わったが、54歳の時に脳腫瘍で死亡。
1996年
【航空事故】「ニューデリー空中衝突事故」インド発のサウジアラビア航空763便とカザフスタン発のカザフスタン航空1907便が、操縦士のミスにより空中で衝突し墜落。乗員乗客312人全員が死亡した。民間による空中衝突事故としては最大規模であり、航空事故全体としても史上3番目に多くの死者を出した事故である。
2001年
【航空事故】「アメリカン航空587便墜落事故」アメリカン航空587便がジョン・F・ケネディ国際空港を離陸直後に墜落。 副操縦士の操作ミスで垂直尾翼が破損したことが原因とされている。乗員乗客260名全員と地上にいた5人が巻き込まれて死亡。現在のところ、アメリカの航空会社史上2番目に多い犠牲者を出した事故である。
2003年
【自殺】ジョナサン・ブランディス(Jonathan Brandis)【俳優/アメリカ】子役として幼少期からCM等で活躍した美少年俳優。主な出演作に映画『ネバーエンディング・ストーリー第2章』ドラマ『フルハウス』等。27歳の時にロサンゼルスの自宅で首吊り自殺をしたが、友人に発見され一命をとりとめた。しかしその影響で翌日死亡。遺書はなかったが、成年するにつれて下り坂になっていく自らのキャリアを思い悩んでいたと、友人には語っていた。