『陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を占拠してバルコニーから演説をする三島由起夫』

1970年11月25日は、昭和の日本を代表する小説家、三島由起夫が割腹自殺を遂げた日である。
森田必勝含む自らの結成した「盾の会」の会員4人を率いて益田兼利総監との面談に臨んだ三島は、その面談中に増田を人質に取って立て籠もる。そのまま自衛隊員を見下ろしながら憂国の檄文をスピーチしたその直後に、予定通りに割腹自殺した。短編小説であり自ら映像化もした作品『憂国』で周到に知らしめたこともあり、三島の最期において、切腹は必然の選択だったといえるであろう。三島の後を追った森田は介錯に失敗したものの、他の会員により無事に三島の首を切断。それを見届けた森田も、その横に首を並べた。
国内の政治関係者は元より、文学界にも大きな衝撃を残したこの事件は、海外でも多くの議論を呼んだが、三島の残した辞世の句には、思うように変わらない日本への憂慮というよりは、自らの死をその意志通りに完結できた喜びの方が強く滲んでいる。

「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」

「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」

人の死は、残されたものたちのものであることをまざまざと痛感させるような、最後の言葉である。

(写真はWikipedia 三島由起夫より使用)

11月25日の不幸

1年
準備中
1970年
【切腹】【自殺】森田必勝【政治活動家】早稲田大学在学中に早大国防部なる政治サークルを立ち上げていた際に出会った三島由起夫に心酔し「盾の会」に入会。以後三島と行動を共にし、「三島事件」の際には三島を介錯する役割を与えられ同行。しかしいざ介錯の段になった際は気持ちが入りすぎたのか手元が狂い、2度振り下ろしても三島はまだ生きていたという。そこで同行した古賀浩靖に刀を渡し無事三島を介錯。その直後に諫める三島を制して自らも切腹した。没年25歳。「今日にかけて かねて誓ひし 我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」
1970年
【切腹】【自殺】三島由紀夫【小説家・劇作家・政治活動家】『金閣寺』『仮面の告白』『憂国』等の代表作で知られる昭和日本を代表する小説家。晩年は自らの結成した「盾の会」とともに右翼思想家としての活動でも有名。会員4人を率いて自衛隊市ヶ谷駐屯地に立て籠もり、自衛隊員を見下ろしながら憂国の檄文をスピーチしたその直後、割腹自殺をした。45歳没。辞世の句は「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」
1974年
【早世】【薬物過剰摂取】ニック・ドレイク(Nick Drake)【ミュージシャン】(つづきから)遺書は無かったために自殺か事故かは不明のまま。没年26歳。1980年以降、2000年代に至っても様々なミュージシャンがニックの影響を告白し、その死後評価を高めた。
1974年
【早世】【薬物過剰摂取】ニック・ドレイク(Nick Drake)【ミュージシャン】ミャンマー生まれのイギリス人フォークシンガー。ケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジ在学中にアルバム『ファイヴ・リーヴス・レフト』でデビュー。その後大学を中退しロンドンに移り、『ブライター・レイター』(1970年)『ピンク・ムーン』(1971年)とアルバムを発表するが、セールスは伸びなかった。この頃には生来患っていた鬱病が悪化し、プログラマー等の仕事にも就いたが、自宅の部屋で抗うつ剤を大量に服用し死亡。(つづく)
1986年
【現金強盗事件】「有楽町三億円事件」1986年11月25日午前8時頃に、三菱銀行(現三菱東京UFJ銀行)有楽町支店に来た現金輸送車が3人組の窃盗団に襲撃され、現金約3億3000万円と有価証券が強奪された。1987年10月にフランス警察から指紋リストとの指紋照合の結果、フランスの窃盗団(フランス人3人とアルジェリア人1人)であったことが判明。ICPOを通じて国際指名手配後、3人をフランスで逮捕。主犯の1名は潜伏先のメキシコで1988年4月に逮捕された。
1999年
【死去】 ピエール・ベジェ(Pierre Étienne Bézier)【コンピューターグラフィックス技術者・工学者/フランス】パリ大学の工学博士号を取得後、ルノー社でCAD、CAM等のシステム開発に従事。現在のコンピューターグラフィックスの基本機能である"ベジェ曲線"の考案者として知られる。89歳没。
2005年
【死去】ジョージ・ベスト(George Best)【サッカー選手/北アイルランド】英国フットボール史上最高の才能ともいわれ、1963年代〜1974年代にかけて所属したマンチェスター・ユナイテッドで、ドリブルを武器に伝説的な活躍をしたウィング・プレーヤー。マイナー国であったためにワールドカップには出場できなかったが、ユナイテッドの"7番"として、ヨーロッパ圏を席巻した。また当時のスポーツ選手としては異例の派手なファッションと長髪で同時代のアイドルになぞらえ"5人目のビートルズ"と呼ばれていた。(つづく)
2005年
【死去】ジョージ・ベスト(George Best)【サッカー選手/北アイルランド】(つづきから)現役引退後はアルコールとギャンブルの依存症に苛まれ、1982年に破産。1984年には飲酒運転、警官への暴行で実刑判決を受けた。2002年には肝臓移植手術を受けたがアルコールは断ち切れず、2005年にインフルエンザで入院した際に腎臓の感染症にかかりそのまま病死。没年59歳。その死から1年後に北アイルランドのアルスター銀行が記念5ポンド紙幣を発行した際には、その活躍に敬意を表して特例的にイングランド圏でも流通した。
2010年
【死去】星野勘太郎【プロレスラー】(つづきから)引退後はプロモーターを務めていたが「プロレス結社魔界倶楽部」の総裁としてリング復帰。「ビッシビシ行くからな!」の名台詞でプロレス流行語大賞を受賞するなどして再び一花咲かせる活躍ををみせた。2009年2月4日に脳梗塞で倒れた後は言語障害が残り、リハビリに努めたが同年に肺炎で死去。没年67歳。
2010年
【死去】星野勘太郎【プロレスラー】1961年に日本プロレスに入門し同年駒厚秀戦でデビュー。1967年アメリカ武者修行中に結成した山本小鉄との"ヤマハ・ブラザーズ"で米国でも話題になり、帰国後の日本プロレス消滅により新日本プロレス立ち上げに参戦。ヤマハ・ブラザーズで国際プロレスのIWA世界タッグ王座を奪取するなどして活躍した。山本の引退後は喧嘩っ速いスタイルの"突貫小僧"として活躍したが、1995年2月19日の木戸修戦で現役引退。(つづく)
2011年
【死去】西本幸雄【プロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者】(つづきから)2011年11月25日に宝塚市の自宅で心不全により死亡した。没年91歳。
2011年
【死去】西本幸雄【プロ野球選手・プロ野球監督・野球解説者】選手としては社会人から1950年に30歳で毎日オリオンズに入団し、1塁手としてレギュラーとしてその年のリーグ優勝、日本一に貢献したが、35歳で引退して指導者の道に。昭和のパリーグを代表する名監督として、毎日オリオンズ、阪急ブレーブス、近鉄バファローズの3チームで8度のリーグ優勝を遂げたが、日本一には一度もなれなかった"悲運の名将"としてもファンから愛された。晩年は球界のご意見番としてテレビ、スポーツ紙の解説者で活躍したが2003年に引退。(つづく)