『髪を切りスーツ姿になって1976年カリフォルニア州議会議員選挙で活動するハーヴェイ・ミルク(写真一番右)』

1978年11月27日は、アメリカの同性愛者権利活動家として知られるサンフランシスコ市会議員のハーヴェイ・ミルクが射殺された日である。
1960〜1970年代のアメリカに於けるゲイ・カルチャーの中心地だったサンフランシスコで、ゲイコミュニティーの中心人物となったミルクは、その市民権運動のためにサンフランシスコ市議会選挙に2度、カリフォルニア州議会議員で1度の落選を経て、1977年、3度目の立候補でサンフランシスコ市議に選ばれた。その就任以来、ゲイに差別的な法案の改正へ意欲的に取り組んでいた矢先に、1978年11月27日、自らの辞任を取り消さなかったジョージ・マスコーニ市長を暗殺した前市議、ダン・ホワイトに遭遇し、5発もの弾丸を打ち込まれ射殺された。
その公判に於いてホワイトは「殺意はなかった」「すれ違い様にミルクに嘲笑われた」「精神異常だった」との論調を展開。すると判決では「計画的殺意のない殺人」での有罪とされ、7年8カ月の禁固刑という、2人の連続殺人ではあり得ないほど軽い処遇に。
この判決をホモ・フォビアと見なしたゲイ・コミュニティーの怒りは、翌年5月21日に「ホワイト・ナイトの暴動」に発展した。
それは自らの死を予期しながら戦っていたミルクが予見した通りの出来事であった。
彼は自らが暗殺された時に公開するための言葉を、テープに録音し遺していた。

"If a bullet should enter my brain, let that bullet destroy every closet door".
銃弾が渡しの脳に撃ち込まれた時、それはゲイたちが隠れているクローゼットのドアを壊すことになるだろう。

アメリカで初めてゲイを公言して当選した議員であるミルクのこの悲劇的な死が、多くのゲイたちを解放したことは事実であろう。

(写真はWikipedia Harvey Milkより使用)

11月27日の不幸

1961年
【事故死】津村謙【歌手】1951年の代表曲『上海帰りのリル』で知られる戦後のスター歌手。東京都杉並区の自宅ガレージでエンジンをかけた状態の自家用車の運転席で排気ガスによる一酸化炭素中毒に。昏睡状態のまま病院に搬送されたが意識不明のまま死去。37歳没。麻雀の後の朝帰りで、家族を起こさないように車中で眠ってしまったのが裏目に出たという。
1978年
【暗殺】ハーヴェイ・ミルク(Harvey Bernard Milk)【同性愛者権利活動家・政治家/アメリカ】(つづきから)ホワイトの7年8カ月の禁固刑という、2人の連続殺人ではあり得ないほど軽い判決がゲイ・コミュニティーの怒りを招き翌年5月21日に「ホワイト・ナイトの暴動」に発展した。
1978年
【暗殺】ハーヴェイ・ミルク(Harvey Bernard Milk)【同性愛者権利活動家・政治家/アメリカ】ニューヨークで演劇関連の職務に就いた後にカリフォルニアに移住し、アメリカの同性愛者権利活動家からサンフランシスコ市会議員に。就任以来、ゲイに差別的な法案の改正へ意欲的に取り組んでいた矢先に、1978年11月27日、自らの辞任を取り消さなかったジョージ・マスコーニ市長を暗殺した前市議、ダン・ホワイトに遭遇し、5発もの弾丸を打ち込まれ射殺された。没年48歳。(つづく)
1991年
【急死】吉村よう【声優】『くまのプーさん』『ついでにとんちんかん』の間抜作役等で活躍した声優。NHK教育テレビ『いちにのさんすう』では"ヨシさん"の愛称でお兄さん役も務めた。1991年11月にクモ膜下出血で入院したが、意識不明のまま同月27日に死去。没年37歳。
1998年
【自殺】三輪田勝利【プロ野球スカウト】社会人野球大昭和製紙から1969年にドラフト1位指名で阪急ブレーブスに入団。1973年に現役引退後は、スカウトとして阪急、後のオリックス・ブルーウェーブで活動。イチローら数多くの名選手を発掘したが、1998年に1位指名した沖縄県立沖縄水産高等学校の新垣渚が入団を拒否。その件で球団上層部が三輪田を叱責したということもあってか、那覇市内で飛び降り自殺。没年53歳。当時の球団社長・井箟重慶は「球団に責任があったとは思っていない」とコメントしたが1999年に労災認定が降りた。
1999年
【死去】ヒロ・マツダ【プロレスラー】(つづきから)引退後はブッカーとして活動しながらトレーナーとしてハルク・ホーガン、ポール・オーンドーフら有名レスラーを育生、また武藤敬司、マサ斎藤など多くの日本人レスラーのアメリカ武者修行をサポートした。肝臓ガンでタンパの自宅で死去。62歳没。
1999年
【死去】ヒロ・マツダ【プロレスラー】本名小島康弘。1957年に日本プロレスに入団するが3年で退団。ペルー、メキシコを経てアメリカマットに参戦。カール・ゴッチに師事し、必殺技のジャーマン・スープレックス等のテクニックを身に付け、当時の外国人としては珍しくベビーフェイスで活躍。1964年にはダニー・ホッジに勝利しNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取するなど、アメリカマット界を席巻した。その後は日本プロレス、全日本プロレス、新日本プロレスでも活躍。(つづく)
2007年
【死去】ロバート・ケード(James Robert Cade)【大学教授・医師】フロリダ大学医学部の医学教授、医師。フロリダ大学医学部の助教授に就任時に同大学のアメフト部からの依頼でスポーツ・ドリンク「ゲータレード」を考案したことで知られる。腎不全で80歳没。
2011年
【自殺】ガリー・スピード(Gary Andrew Speed)【サッカー選手・サッカー指導者/ウェールズ】(つづきから)原因は漠然とした喪失感であったといわれており、4日前に自殺の可能性について文章を書いたが、妻と二人の子供のことを思い見せていなかったという。
2011年
【自殺】ガリー・スピード(Gary Andrew Speed)【サッカー選手・サッカー指導者/ウェールズ】リーズ・ユナイテッド、ニューカッスル・ユナイテッド、シェフィールド・ユナイテッド等のプレミア・リーグで活躍した名フットボーラー。キャプテンシーを持った中盤の選手として知られ、引退後はシェフィールド・ユナイテッドでコーチ、監督を務めた。2010年にはシェフィールドの監督業を中途退任し、ウェールズ代表の監督に就任。しかし翌年11月27日に自宅ガレージで首吊り自殺。没年42歳。(つづく)
2013年
【死去】ニウトン・サントス(Nílton Santos)【サッカー選手/ブラジル】1958年スウェーデン大会、1962年チリ大会とサッカーワールドカップ2連覇を成し遂げたブラジル代表の攻撃的左サイドバック。クラブシーンではボタフォゴでプレイ、729試合でプレイした。2000年頃からパーキンソン病、アルツハイマー症候群に悩まされ、合併症の肺炎で死亡した。没年88歳。