『当日撮影された事故後のパンアメリカン航空103便の残骸』

1988年12月21日は、ロンドンのヒースロー空港を飛び立ったパンアメリカン航空103便がスコットランドのロッカビー上空で爆破されたテロ事件『パンアメリカン航空103便爆破事件』が発生した日である。
相次ぐテロが日常的に多発している現在からみても格段に大規模なこの事件は、リビア人テロリスト2名が持ち込んだ時限式のプラスチック爆弾が爆発し、地上でも大爆発を引き起こした。
その結果、住民11名を含む乗員乗客全員である、270人が死亡。
被害者の多さに加え、驚くべきことにこのテロはリビア国家が関与していたこと、1986年にアメリカが行なったリビア空爆に対する報復行為で行なわれたものであることが後に発覚した。
事件後、当時のリビア最高指導者であったカザフィ大佐は犯人2名の引き渡しを拒否していたが、様々な国際的圧力に負けるようにして引き渡し、国際司法裁判所によりメグラヒ容疑者に終身刑、フヒマ容疑者には無罪が言い渡された。
アメリカのリビア空爆がリビアのテロ支援への制裁の名目であったが、その結果、新たな巨大なテロ事件を招くことになった。
現在の《連鎖型テロ社会》へと続く兆しとして記憶すべき不幸である。

(画像はWikipedia Pan Am Flight 103より使用)

12月21日の不幸

1940年
【死去】スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald)【小説家/アメリカ】(つづきから)大学生以来のアルコールの中毒で衰弱し、心臓麻痺でグレアムのアパートで死亡した。没年44歳。
1940年
【死去】スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald)【小説家/アメリカ】代表作『グレート・ギャツビー』で知られる20世紀初頭のアメリカを代表する小説家。世界恐慌の煽りや、妻であり小説家のゼルダ・セイヤーの統合失調症とそのスイスでの治療で経済的に困窮し、1930年後半からハリウッドの脚本家に転身したが、生活が上向くことはなく、愛人のゴシップ・ライター、シーラ・グレアムに頼っての晩年だったという。(つづく)
1959年
【死去】北大路魯山人【芸術家】篆刻家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家等多くの才能を発揮した人物であるが、現在最も広く知られているのは美食家としての顔であろう芸術家。「美食倶楽部」「星岡茶寮」等の高級会員制食堂を手がけ美食家として地位を確立し、イサム・ノグチ・山口淑子夫妻やパブロ・ピカソ、マルク・シャガール等と交流するなど国際的にも活躍した。肝吸虫による肝硬変で76歳没。死後の1998年、管理人の焼身自殺、放火で星岡窯内の家屋が全焼した。
1988年
【テロ事件】「パンアメリカン航空103便爆破事件」(つづきから)国際的圧力により最終的には引き渡し、国際司法裁判所によりメグラヒ容疑者に終身刑、フヒマ容疑者には無罪が言い渡された。
1994年
【暗殺未遂】「日本テレビ郵便爆弾事件」当時日本テレビで放送されていた人気ドラマ『家なき子』の主役・安達祐実宛の郵便物が日本テレビ宛に郵送され爆発。同封のパイプ爆弾により安達の所属するサンミュージック関連会社社員1名が左手親指を失う重傷、日本テレビ関連会社社員と安達のマネージャーが軽傷を負った。
1998年
【テロ事件】「パンアメリカン航空103便爆破事件」ロンドンのヒースロー空港を飛び立ったパンアメリカン航空103便にリビア人テロリスト2名が持ち込んだ時限式のプラスチック爆弾が爆発しスコットランドのロッカビに墜落、地上でも大爆発を引き起こし、住民11名を含む乗員乗客全員270人が死亡。 後にリビア国家が関与していたアメリカへの報復行為で行なわれたことが発覚した。事件後、当時のリビア最高指導者であったカザフィは犯人2名の引き渡しを拒否していたが、(つづく)
1999年
【セクハラ】【汚職事件】「横山ノック大阪府知事強制わいせつ事件」元タレントで当時大阪府知事を務めていた横山ノックが、大阪地方検察庁から強制わいせつ罪で在宅起訴され、知事を辞職。選挙活動の際に協力していた女子大生から、セクハラの容疑で民事訴訟を起こされていた件が社会的問題にまで発展していた。
1999年
【死去】大川慶次郎【競馬評論家】(つづきから)1999年12月15日に美浦トレーニングセンターで取材後にゴルフをプレイし、向かった寿司屋で倒れ、21日に高血圧性脳出血で死亡した。没年70歳。家族によると、入院中、意識不明の大川にG1のファンファーレを聞かせると脳波が反応したという。また、生前最後に予想したグラスワンダーは、大川の死から5日後に優勝した。
1999年
【死去】大川慶次郎【競馬評論家】"競馬の神様"と呼ばれ独特の語り口で長くメディアで活躍した、慶應義塾大文学部心理学科卒の競馬評論家。オーナーブリーダーであった実父の大川義雄(高千穂製紙社長)の影響で幼少期から競走馬に触れる毎日を送り、高千穂製紙でのサラリーマン生活を3年で断念し、明治座社長・新田新作の競馬担当秘書に。以降、念願の予想家としてホースニュース社と契約し、1961年9月3日にパーフェクト予想を達成(生涯4度)。各種メイディアで話題となり、競馬評論家の第一人者としてその死まで活躍した。(つづく)
2011年
【奇妙な死】上田馬之助【大相撲力士・プロレスラー】(つづきから)1996年の自動車交通事故で車椅子生活になり、晩年は大分臼杵市でリサイクルショップを経営していた。2011年12月21日に果物の誤嚥で死亡。没年71歳。
2011年
【奇妙な死】上田馬之助【大相撲力士・プロレスラー】大相撲出身で、"金狼"の異名で活躍した昭和を代表する悪役プロレスラー。大相撲時代は追手風部屋、間垣部屋で海部錦(あまにしき)として活躍(最高位は序二段)。大相撲引退後は日本プロレスに入団。アメリカ武者修行後は日本プロレス末期に帰国、解散後は全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスと渡り歩くフリーランサーとして活動したが、特に新日本プロレス時代のタイガー・ジェット・シンとの凶悪タッグがアントニオ猪木の敵役として人気を博した。(つづく)