ドラマ「都市伝説の女」ウォッチ!

串刺し公と呼ばれた男 “ドラキュラ”残酷都市伝説とは?

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • コメント0
関連キーワード:

,

 元々ヴラドはトランシルバニアのワラキア支配者の家庭に生まれたが、1444年に彼の父を先頭とする連合軍がオスマン帝国に敗北。若くしてヴラドは、弟のラドゥと共に人質になってしまう。3年後の1447年には父が暗殺され、一族の立場は進退窮まり、さらに捕虜になることを逃れていたヴラドの兄もまた殺されてしまった。

 ヴラド不遇の時期は長く続き、表舞台に出る機会を得られるまま、彼は一族に見舞われた不遇を嘆き、周囲への恨みを募らせるようになる。1456年。とうとうヴラドは沈黙を破り、ハンガリー出身の貴族からの熱烈な後押しを受け、ワラキアの権力を握ることに成功する。そしてここから、彼の狂気が牙を剥くこととなった。

 まずは、当時中央集権制度に不満を持っていた諸侯を大勢集め、盛大な宴を開催。諸侯らは長らく幽閉されていたヴラドが、ハンガリーとオスマンからのお目こぼしでワラキアを治める傀儡君主ではないかと内心馬鹿にしていたようだが、これが間違いであることがすぐに証明される。1人のトルコ人貴族が、ヴラドの前で帽子を脱がなかったことについて「これがトルコの流儀だ」と答えるところ、たちまちにヴラドは激昂。

「ではその流儀とやらを徹底させよう」と言い放ち、兵士らに帽子を被ったまま、この貴族の脳天に杭を打ち込んで殺したのであった。この宴では他にも不遜な態度を取った者が次々に串刺しにされた。当時串刺し刑は卑しい身分の者に課せられる処罰とされていた。

 ヴラドのこの鬼畜極まりない処断は、「諸侯といえど反発すれば罪人のように犬死にをさせる」という強烈な意思表示の証明となった。

 それだけではない。未だ強大な力を持った大帝国として君臨し続けていたオスマンに、ヴラドは毅然と貢納を拒絶してみせ、オスマン帝国から貢納を催促するための使節団が派遣されるや、彼らを生きたまま串刺しにしてみせた。当然オスマン帝国がこれを看過するはずもない。忽ちにワラキアの全兵力の数倍もの兵団を向かわせたが、ヴラドはその都度恐るべき策略を発揮して撤退に追い込んでみせた。

 ある時は、オスマン軍が侵攻した村の住民を退避された上で焼き払い、井戸に毒を撒いてみたり、またあるときはかねてから捕縛していたオスマンの捕虜を尖った杭を使って得意の串刺しに処していたという。特に、後者の手段が敵に与える精神的なプレッシャーは絶大で、焦土の至るところで仲間の無惨な骸にカラスがたかっている様子を目撃した帝国軍の士気は、見る間に失われてしまったということだ。1460年頃にはこれらの残酷極まりない計略が奏功し、ヴラドは帝国からも「串刺し公」と恐れられる存在になった。

 さて、それにしてもヴラドが残酷な男であることは分かるのだが、それが何故吸血鬼のモデルになったのだろうか。その理由は後世に伝わる彼の異常な所業の数々が、ある種拡大解釈されて広まったためである。実際には彼は人の生き血を啜ることはなかったが、そういうことをしてもおかしくないと思わせてしまったのである。

 作家のブラム・ストーカーが発表した小説『ドラキュラ』に登場する吸血鬼ドラキュラは、確かにヴラドがモデルで、トランシルバニア出身ではあるのだが、その実態はほとんどがブラムの創作で、元々存在していた各地の吸血怪物伝説のエッセンスを掛け合わせたものである。

 小説『ドラキュラ』以前から恐れられていた有名な吸血鬼伝承は少なくない。西洋では死人が棺の中から生き返り、生者の血を吸うという古典的な民間伝承が星の数ほど存在していた。ヴラドが生きていた時代にも、同様の伝承はワラキア周辺、もしくはオスマン帝国でも囁かれていたかも知れない。得体の知れない怪物、吸血鬼と恐ろしい君主の串刺し公。この2つの要素を見事に小説に落とし込み、以降の吸血鬼のイメージを決定付けたブラムはまさに天才である。そのドラキュラ伯爵と音無月子の対決が『都市伝説の女』の最終回で描かれるのは、何とも興味深い。果たして我らが月子は、この都市伝説に打ち勝つことができるのか!? 今日のドラマに期待しよう。
(松本ミゾレ)

・参考リンク
・なぜ、吸血鬼ドラキュラは「ニンニク」が嫌いなのか? 
毎月2リットルの血を飲み続ける英国人

関連キーワード

コメントする

画像認証
※名前は空欄でもコメントできます。
※誹謗中傷、プライバシー侵害などの違法性の高いコメントは予告なしに削除・非表示にする場合がございます。