萌えとエロスと…、浅草にみる知られざる歌舞伎の原点

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■衰退しつつある歌舞伎を復活させた原点回帰

 また、さらに水野忠邦の「天保の改革」の際も、歌舞伎を統制する動きがあり、さらに縮小。まさに泣きっ面に蜂の状況下の歌舞伎ですが、そんな時に中村座が出火してしまいます。この火事は、中村座だけに収まらず、近隣の市村座も焼けてしまいました。これが引き金となり、芝居関係の小屋を一カ所に押し込めてしまおうという動きが出るのです。その引っ越し先こそが、浅草聖天町(猿若町)。弾左衛門屋敷があった今戸町の間近でした。

 一旦離れた浅草弾左衛門の側に据えられた歌舞伎の小屋たち。今後が危ぶまれる状況に追いやられましたが、弾圧を続けていた水野忠邦は失脚、また江戸城下に転在していた三座が近くに並んだことにより、役者や作者の貸し借りが楽になったことで風向きがかわります。加えて浅草や吉原からも近場になったため見物客の足が向きやすくなったこともあり、皮肉にも移転は大成功を収め、歌舞伎の一大ブームがやってきます。

 移転後の幕末から明治初年あたりまでの30年あまりの間は、史上最も歌舞伎が盛んになった時期とされています。
 
 有名な二代目河竹黙阿弥の「都鳥廓白波(みやこどり ながれの しらなみ)」、「三人吉三廓初買(さんにんきちさ くるわの はつがい)」などの作品が誕生し、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、9代目市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)、初代市川左團次(いちかわさだんじ)などのスターも生まれます。

 残念ながら明治以降、移転。その後の統廃合などによって三座は廃れてしまいました。一方、福地源一郎や團十郎らの歌舞伎の改革運動によって、歌舞伎の舞台は浅草から今の銀座歌舞伎座へ基礎が作られてゆくということになります。ですが、今も新春になると浅草で歌舞伎が行われるのは、最も歌舞伎が隆盛だった時期をたたえるためと、やはり歌舞伎のお膝元、浅草で芝居を打つ、という役者たちの心意気ではないでしょうか。今でも浅草猿若町に、浅草三座の碑が残っています。

 長い歴史があり、伝統芸能の一つされる歌舞伎。古い歴史がありますから格式高く、足を運びづらいという方も居るかもしれませんが、元々は大衆娯楽の一つであったことは間違いありません。浅草や銀座に行くことがあることがあれば、ふらりと立ち寄り、粋な演目を観劇をしてみたはいかがでしょうか?
(文=サイキカツミ)

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