錦織圭の活躍で注目浴びた、96年前のレジェンド・熊谷一弥選手! 想像以上の偉業に迫る

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 熊谷も山手の「レディズ・ローンテニス&クロッケー・クラブ」で腕を磨いた1人であった。慶應の庭球部は1899年(明治32年)発足されたのだが、当時はどこの大学も軟式テニスのみであった。記録によれば、一橋大学、筑波大学が圧倒的に強く、1904年に初勝利をあげるまで、慶應大学は歯が立たなかったという。

 この頃から、野球同様テニスでも慶応・早稲田が台頭することになる。そして、軟式テニスプレイヤーであった熊谷は、海外の動向にいち早く目をつけていた。1877年には、第一回のウィンブルドン選手権が開催されるなど世界のテニス技術は目覚ましい進化をとげているというのに、「このままでは日本は取り残されてしまう」と、他の部員らとともに日本で初めて硬式テニスを採用するに至るのである。


■日本にいち早く硬式テニスを導入

 熊谷が慶應庭球部に硬式テニスを導入した1913年(大正2年)、慶應のチームメートとともにフィリピン・マニラの東洋選手権に出場、日本人初となる海外遠征を果たすことになる。この時熊谷は、シングルス準決勝とダブルス決勝に進出。優勝こそ逃すものの、熊谷の実力は世界に通用することが証明された瞬間だった。また、この時シングル・ダブルスともに優勝した、全米ランキング2位(当時)のビル・ジョンストンから大きな刺激を受けたという。

 熊谷が好成績を残した要因には、元々軟式テニスプレイヤーであった熊谷のプレースタイルにあった。硬式テニスの握り方とは90度異なるウェスタングリップを用いていたため、独特のドライブがかかり、海外の強豪選手を悩ますことができたのだという。

 それに加え、「サービス・アンド・ボレー」のプレースタイルを得意としていた熊谷は、赤土のクレーコートでは圧倒的な強さを誇っていたという。アメリカ遠征の際に、「在米3カ月間で約60人とシングルスを戦い、土のコートでは1セットも失わなかったが、芝のコートでは勝手が違い4人に負けた。また、サーブが強いのに閉口した」とコメントしている。熊谷が左利きであることを考えると、ナダル選手と重なるところが実に多いのも事実なのだ


■アマチュアで出場した全米選手権

 そして、1918年(大正7年)の全米選手権で、熊谷は日本人のテニス選手として初のベスト4進出を達成するのである。当時の新聞も「熊谷氏優勢 国際テニス選手競技會に於いて勝利を博したり」と伝えている。日本人選手初の準決勝では、ビル・チルデンに「2-6, 2-6, 0-6」のストレートで完敗するも、翌年の全米ランキングでは「3位」に上がり、第1位ビル・ジョンストン、第2位ビル・チルデンの2強豪に続く結果を残す事になるのである。この準決勝について、後年熊谷は、「花粉症で試合中に涙が出てハンディになっていた」と弟子に語っている。


■アントワープ五輪で日本人として初のメダリストに! しかし銀に悔やむ

 陸上、水泳、テニスの計13名の日本選手団が参加した1920年(大正9年)のアントワープ五輪では、シングルス・ダブルス(柏尾誠一郎とペア)とも銀メダルを獲得して、日本人のスポ ーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した。しかし、負けん気が強かった熊谷は銀メダルを獲ったことよりも、金を逃したこと悔しさの方が強かったという。同五輪の「選手団報告」には「銀メダル」の文字もなく、決勝敗退は「残念だった」と書かれているのみで熊谷の悔しさが伝わってくる。32年発刊の日本テニス協会10年史には「その夜ほど悲憤の涙にくれたことはない」と、熊谷自身が書いている。


■多数いた凄腕選手達、責任感が強すぎて自殺してしまった天才も…

 日本テニス界の黎明期に活躍したのは熊谷一弥だけではない。今ではあまり知られていないが、実に見事な結果を残している選手が多数いるのだ。1920年(大正9年)6月のウィンブルドンでベスト4、世界ランク4位にまで上り詰めた清水善造選手。彼は、1922年の全米オープンではベスト8まで勝ち進んだ。シングルス最高順位は、世界ランキング3位の佐藤次郎選手で、混合ダブルスでは、オーストラリアのメリル・オハラウッド選手と組んで1932年ウィンブルドンで準優勝を果たしている。

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