「ローマ法王庁、尊厳死を批判 日本人8割、尊厳死を認めるべき」この差にあるものとは?

「ローマ法王庁、尊厳死を批判 日本人8割、尊厳死を認めるべき」この差にあるものとは?の画像1※イメージ画像:Thinkstockより

 バチカンが尊厳死を選んだアメリカ人女性を「自殺は生命を否定する行為」として批判した件が話題となっている。
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0IP04X20141105

 一方で、Yahoo!Japanにおける意識調査においては、日本では8割強が「尊厳死を認めるべき」と回答している。(http://polls.dailynews.yahoo.co.jp/domestic/12682/result
 
 この意識の違いはどこから来るのだろうか?

 まず、語句を区別し直したい。上掲のロイター記事によれば、アメリカ人女性の死は「尊厳死」として扱われているが、医師の処方による死であるこれを「安楽死」と呼ぶことにし、過剰な延命至上主義を避けて死を選ぶ「尊厳死」とは区別したい。というのは、バチカン(カトリック)は実は尊厳死を一定程度認めているからである。

 個人的には、安楽死の是非については「自分の命だから好きなようにすればいい」以外に何も言うことはないのであるが、カトリック側の言わんとすることも分からないではない。特定状況にある患者に自殺の権利を認め、そのような状況の患者が安楽死を選ぶことが一般的風潮となった場合、今度は「そのような状況にある人間は生きる価値がない」という社会通念が生まれかねない。ヒンドゥー教においては、かつて、夫に先立たれた寡婦が後追い焼身自殺(サティ)をすることが美徳とされたが、そのような社会通念が寡婦の自発的、半強制的な自殺を誘発していたと言える。

 さて、話を戻すと、日本人の8割強が「尊厳死を認める」と回答したのは、個人的にはごく当然の結果であると思う。多くの人は、回復の見込みのない状態で多大な苦痛を引き延ばしにされたくはないであろうから。これは宗教的感性うんぬんというよりも人間の自然的感性であって、むしろ、その状況から「それでも安楽死は自殺であり、するべきではない」と言えるのは、独特で強固な死生観、価値観を持つ人といえよう。そのような死生観、価値観を宗教が提供するのは不思議な話ではない。

◆宗教と自殺

■“正当な自殺”は宗教的な勝ち組がすることだった

 ……不思議な話ではないが、一方で、宗教と自殺の親和性も決して低くないのである。宗教は一般的な道徳(「自殺してはいけない」など)を補強するもの、と考える人もいるだろうが、それは宗教の一側面にすぎない。実際は、宗教はしばしば反社会的ですらある。

 当該社会における価値観では「負け組」とされてしまう人々に対し、別の価値観を与えて、異なる価値体系の中で「勝ち組」に生まれ変わらせる。そのような機能が宗教にはあるからだ。例えば、金を稼ぎ、美人の妻を得て、健やかな子供を育てることに高い価値を見いだす人々に対し、それらの価値を全否定し、社会と一線を引いて孤高のニートを貫くことに価値を見だしたのが初期仏教である。貧乏な非モテであっても、こちらの価値体系では幸せになれるのである。だが、そのようなニートが増えては社会は機能不全を起こす。よって、宗教は「反社会的」な側面を持つと言えるのだ。

 自殺も反社会的行為である。そして、自殺行為を美徳とする価値観は様々な宗教に見られる。イスラム教ではコーランに「誰ひとり、定めの時が来て、アッラーのお許しを戴いてでなければ死ぬわけには行かぬ」(井筒俊彦訳 3章145節)とあり、明確に自殺が禁止されているが、自爆テロが頻発していることはご承知の通りであり、仏教でも補陀落渡海(浄土を目指して小舟で沖へ出て、そのまま漂流死する)が例として挙げられる。即身仏も事実上の自殺と言ってよかろう。創作であるが、釈迦が前世において飢えた虎のために自らの身体を犠牲とした捨身飼虎のエピソードもある。

 つまり、強い救済を求めたり(補陀落渡海、即身仏)、誰かのために我が身を犠牲にする(自爆テロ、捨身飼虎)など、気持ちが大きく盛り上がった時に、人は宗教的文脈の上で自殺するのである。「自殺」という反社会的行為が、その価値体系の中では「勝ち組」となるからだ。

 では、キリスト教はどうだったかというと、これがもう自殺したした。しまくった。そもそもイエスからして、国家権力により政治的に処刑されたのを「意義深い自己犠牲」と位置付けられるなど、かなり不健康な意味付けが行われたのであるが、そのイエスに倣わんとしてか、ローマ帝国からの迫害に対しキリスト者たちはひるむことなく殉教を遂げていったのである。

 殉教を受け入れたのはまだ自殺とは言えないとしても、それらの殉教者たちが聖人と見なされヒーロー視され始めると、今度はそちらの価値観が強くなってしまい、わざわざ当局に出頭して、無駄に殉教しようとし始める。さらにキリスト教がローマ帝国で公認化されると、一部のキリスト教徒たちは迫害されなくなったことが寂しくて仕方なくなり、集団自殺などするようになった(キルクムケリオーネス)。気分が盛り上がってしまったのである。

 無論、キリスト教上層部としては、盛り上がってしまった彼らのそのような反社会的行動を容認できない。キリスト教は既に国家権力と一致し「社会」に組み込まれたからだ。そこで生まれたのが自殺禁止の教えである(そして、殉教できなくなったキリスト者は砂漠などに隠遁し、社会的に死ぬことにした。修道士の始まりである)。