『絶歌』を読む人たちが求めているものがわからない ― 加害者が執筆・出版した3つの怪事件

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • コメント0
関連キーワード:

,

,

,

2、永山則夫連続射殺事件

『絶歌』を巡る論争で、手記を出した殺人犯として、よく名前が上がるのが、永山則夫だ。手記としては『無知の涙』(角川文庫)『人民をわすれたカナリアたち』(角川文庫)『愛か-無か』(合同出版)『動揺記1』(辺境社)『反-寺山修司論』(JCA)などがある。昭和58年には、小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞。その後、『ソオ連の旅芸人』(昭和出版)『捨て子ごっこ』『なぜか、海『異水』『華』(すべて、河出書房新社)と、次々に小説を発表している。

 昭和43年、19歳であった永山は、横須賀のアメリカ海軍基地から拳銃を盗んだ。それを使い、同年10月11日、東京プリンスホテルの27歳のガードマンを射殺。10月14日、京都の八坂神社で69歳の守衛を射殺。10月26日、函館で31歳のタクシー運転手を射殺。11月5日、名古屋で22歳のタクシー運転手を射殺。翌年4月7日、逮捕された。

 犯行動機は、“社会への復讐”であった。

 永山は、北海道網走市呼人番外地で生まれた。永山が5歳の時に母親は出て行ってしまい、父親は博打に明け暮れて家庭は崩壊していた。兄や姉から虐待を受けていた永山は、青森にいる母親に引き取られ、中学を卒業すると東京に集団就職する。高級果物店に就職した永山は、その働きぶりで信頼を得るが、自分のささやかな誤解で退職してしまう。その後は、自動車修理工場、羽田空港、ホテル、クリーニング店、牛乳店など職を転々とする。

 働きながら勉強しようと、明治大学附属中野高等学校の夜間部に入学するが、除籍や再入学、そして退学と定着はしなかった。そして、退学した昭和43年に事件を起こす。9月に陸上自衛隊入隊試験を受けるが、不合格。アメリカ海軍基地から拳銃を盗んだのが、10月である。

 逮捕から10年後の昭和54年、東京地裁で死刑判決が下る。昭和56年の東京高裁の判決では、生育環境が劣悪であったこと、犯行時に未成年であったことが考慮され、無期懲役となった。だが平成2年、生育環境などを考慮したとしても犯行は悪質だとして、最高裁は死刑判決を下した。

永山が注目される理由のひとつとして、逮捕された時には読み書きさえろくにできなかった彼が、獄中での独学で小説を書くまで至ったことが挙げられる。確かに、刑が確定するまでは拘置されているだけで懲役労働はなく、時間はたっぷりある。死刑判決の場合は、刑確定後も同様だ。だが、同じ条件にあり大学生であった連合赤軍の犯人たちが書いた内容がほとんど手記に留まっているのと比べ、獄中で作家になった永山の変化は驚くべきものだ。なんとか、犯行に至らずに、彼が自己表現の術を手にすることはできなかったのか、と考えてしまう。

 平成9年、永山則夫への死刑は執行された。

 小谷野敦著『なぜ悪人を殺してはいけないのか』(新曜社)は、死刑制度賛成の立場で書かれているが、文学を通じて更正を果たしていた永山の死刑には異議を唱えている。

関連キーワード

コメントする

画像認証
※名前は空欄でもコメントできます。
※誹謗中傷、プライバシー侵害などの違法性の高いコメントは予告なしに削除・非表示にする場合がございます。