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画像は、「YouTube」より

 現在のチェコ共和国とスロバキア共和国によって構成されていた国家チェコスロバキアは、ナチス・ドイツに翻弄された国だった。世界恐慌発生後、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方で、雇用問題を巡ってドイツ人とチェコ人の対立が深刻化。これにつけ込んだナチス・ドイツは1938年、同地方の割譲をチェコ政府に迫った。この問題を解決するために開催されたミュンヘン会談では、宥和政策を取るイギリスのネヴィル・チェンバレン首相とフランスのエドゥアール・ダラディエ首相が、ドイツの要求通りズデーテン割譲を認め、チェコスロヴァキア解体が始まった。

 同年、チェコスロバキアのベネシュ大統領はロンドンに亡命し、エミール・ハーハが後継大統領に就任した。以降、チェコスロバキア国内では民族運動が激化。1939年、ヒトラーはハーハ大統領を脅迫して、ボヘミア、モラヴィア地方をドイツ領とする協定に署名させた。東半分のスロバキアは独立国として残ったものの、実質的にはドイツの保護国と化していた。こうしてチェコスロバキアは完全に解体された。

 そして1940年、ロンドンでベネシュを大統領とするチェコスロバキア亡命政府が結成された。ベネシュ大統領は連合国の承認を得ると同時に、1943年12月にはソ連を訪問して、ソ連=チェコスロヴァキア友好協力相互援助条約を締結した。占領下のチェコスロバキアでも共産党系と亡命政府系の勢力が共闘してナチス・ドイツへのレジスタンス抵抗を続け、1944年にはスロバキア民衆蜂起が勃発。1945年、ナチス・ドイツの敗北によって占領も終わりを迎え、ベネシュはロンドンから帰国。チェコスロバキア共和国を復活させた。

 その後、ベネシュ大統領はベネシュ布告を発令して、チェコスロバキアからドイツ人を追放した。1945年、武装した民兵や正規軍によって追放は実施され、この間に少なくとも1万5千人のドイツ人が死亡したとされる。首都プラハを中心に、女性や子ども、難民なども含む数多くのドイツ人が虐殺されたのだ。

 その時の光景を記録した映像がYouTubeに公開されている。一列に並んだドイツ人たちが次々と銃殺されていく。場面は変わって、手を挙げて歓喜する民衆の間を車が通過する様子が映し出される。路傍にはドイツ人の死体が何体も横たわっており、車はそれらを蹂躙しながら走行する。運転手にとって、死体は邪魔な障害物でしかないのだろう。

 ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺はあまりにも有名だが、チェコスロバキアでドイツ人が虐殺されたという事実はほとんど知られていない。多くの人はドイツが一方的な加害者だというイメージを抱いているが、戦争では、加害者が同時に被害者である場合がほとんどだ。歴史を記録した映像から真実を学ぶことが求められている。
(文=標葉実則)

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コメント

1:匿名2018年9月 1日 17:11 | 返信

ロシア軍の制服に見えるんですけど

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