10月31日は画家エゴン・シーレが亡くなった日! クリムトとともに19世紀末に活躍、過激な画風で絵が燃やされたことも…

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(WIkipedia Egon Schieleより使用。Public Domain)

『エゴン・シーレ作「死と乙女」』(オーストリア・ギャラリー収蔵)

 1918年10月31日は、19世紀後半を代表する画家のエゴン・シーレが死亡した日である。
クリムトらとともに19世紀末に活躍したウイーン分離派の画家として知られるシーレであるが、その怪異ともいえるような独特の画風は同時代の画家からは明らかに一線を画し、表現主義の作家と括られることも多い。


 ウィーン美術アカデミーにも入学した早熟な才能は同年代でもよく知られるところで、師事したクリムトの全面的な支援も手伝い、ウィーン国内に止まらない賞賛を集めていた。


 その一方で、当時としては過激な部類に入ったシーレの画風から様々なトラブルにもつきまとわれ、1912年には14歳の少女を泊めたことで身柄を拘束され、さらにはその作品が警察により猥褻物として押収、ひどいものは燃やされるという事件もあった。


 結果的にシーレの激しい人生はたった28歳で終わってしまうのだが、その全盛期といわれている頃にモデルを務めていたのが、クリムトから紹介されたといわれるヴァリ・ノイツェルである。


 多くの名作のモデルとして知られるヴァリは私生活でもシーレのパートナーであったのだが、中でも評価の高い作品が彼女とシーレの別れを描いたといわれる『死と乙女』である。


 シーレは彼女以外の女性との結婚を告げながらも、その一方でヴァリとの関係も続けていく予定であった。


 しかしヴァリは断固とした別れを望み、その返答に驚いた瞬間のシーレが、“死”として描かれている。


 結果的に、ヴァリを拒絶し別の妻を娶ったシーレであったが、妻とともにたった4年後に、当時猛威を振るったスペイン風邪で死亡している。


 そのあまりにも早過ぎる死を思うと、シーレは自らのミューズを手放し『死と乙女』を描きあげた時点で、画家として、そして人間としての自らの死を選んでしまったといえるのかもしれない。

 

<トカナ 今日の不幸を記憶するブラックカレンダーより>

編集部

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