『自殺の10日後に見つかった趙成珉の遺書』

2013年1月6日は、元読売巨人軍の韓国人投手、趙成珉(チョ・ソンミン)がソウルの元交際相手女性のマンションで首吊り自殺をした日である。
“コリアン・エクスプレス”の異名で将来を嘱望されていた若手選手として巨人に入団した趙は、その恵まれた才能に反して成功を収めたとは言い難い現役生活を終えた選手としても知られているが、奇跡的ともいえる自殺の連鎖で亡くなった人物としても知られている。
2000年に当時韓国で人気絶頂にあった女優、チェ・ジンシル(崔真実)と結婚したが、チョによる衝撃的なDVが発覚するなどして結婚生活はたった2年で破綻。
するとチェは主にネットでの悪評を苦に2008年に自宅で首吊り自殺をした。
2年後の2010年にはチェの弟であり俳優のチェ・ジニョンが姉の後を追い自殺。
元妻とその実弟の自殺にショックを受けていたと言われていたチョ・ソンミンもまた、彼らと同じ自殺の道を選択したのだった(その後チェ・ジンシルの元マネージャーも自殺)。
元夫婦と妻の実弟の3人が自殺というだけでも“負の連鎖”と呼ぶに相応しいが、気味の悪いことに、3人全員が39歳で自殺をしているのだ。
自殺が連鎖するものだということを、ここまで体現している例も少ないだろう。
その遺書には、堂々とした体躯を誇ったアスリートの面影は消え失せ、両親に先立つ息子の謝罪と、妻が遺していった二人の子供を守りきれない衰弱しきった男の言葉が並んでいた。
現役引退を最初の死として、“アスリートは2度死ぬ”という言葉もよく使われているが、チョにとっては現役の最中からヒジの故障で数度の死を経験していたようなキャリアであり、諦めきれず現役復帰をしてもう一度引退を経験していた。
さらに私生活では離婚という“結婚生活の死”を経験し、その妻や弟が実際に相次いで死んでいった。“死”は、孤独に苛まれたチョ・ソンミンの人生にとって、唯一の伴侶だったのかもしれない。

(画像は趙成珉が遺族に宛てた遺書)

1月6日の不幸

1725年
【死去】近松門左衛門【劇作家】

江戸時代に活躍した浄瑠璃および歌舞伎の劇作家。京都の浄瑠璃語り宇治加賀掾(うじかがのじょう)の下で浄瑠璃を学び、1675年に加賀掾の人形芝居一座で浄瑠璃作家として活動を開始。以後浄瑠璃『世継曾我』(1683年)『出世景清』(1685年)などを発表し人気を博す。1693年から歌舞伎の狂言作家として活動を始め、その後再び浄瑠璃作家へと復帰し『曽根崎心中』(1703年)を発表。復帰後は加賀掾の弟子・竹本義太夫の立ち上げた竹本座の座付作者となり『国性爺合戦』(1715年)を発表。晩年まで浄瑠璃作家として活動を続け1724年に遺作『関八州繋馬』を書き上げ、1725年1月6日に死去。没年72歳。

1852年
【死去】ルイ・ブライユ(Louis Braille)【教育者/フランス】

5歳の頃に事故と病気で視力を失い全盲となったが、10歳から入学したパリ王立盲学校在学中の1825年に現在使用されている6点式の点字を開発した人物。卒業後は同校の教師として後進の指導に当たった。1852年1月6日に肺結核で死亡。没年43歳。

1884年
【死去】グレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel)【司祭・植物学者・遺伝学者/オーストリア帝国】

19世紀オーストリア帝国の司祭および植物学者・遺伝学者で『メンデルの法則』で知られる人物。1843年に聖アウグスチノ修道会に入会し1847年に司祭となる。司祭に従事する傍ら独学で科学を学び、1851年にウィーン大学へ留学。1853年から1868年にかけてエンドウマメの交配実験を行ない、1866年に『ブリュン自然科学会誌』へ論文を発表するも成果が認められず研究を終了。その後は修道院長などを勤めながら気象の研究などを行ない、1884年1月6日に腎炎で死去。没年61歳。死後の1900年に植物学者ユーゴー・ド・フリースらによって遺伝の法則が再発見されたことでメンデルの研究が明らかとなり以後『メンデルの法則』として承認されることとなった。

1919年
【死去】セオドア・ルーズベルト(Theodore “Teddy” Roosevelt)【政治家・軍人・警察官/アメリカ合衆国】

ニューヨーク市警察本部長、アメリカ合衆国海軍次官、第33代ニューヨーク州知事、第25代アメリカ合衆国副大統領等の要職を経て、1901年のウィリアム・マッキンリー大統領暗殺を受け、42歳という当時の米国史上最年少で第26代アメリカ合衆国大統領に就任した人物。日露戦争の調停や、パナマ運河への着工など、力強い国策の数々で”米国歴代最高”の呼び声も高い大統領であった。1909年の退任後も国政に関わったが、1914年に出かけたアマゾン探検でマラリアに羅患。第一次大戦中の1918年に炎症性リウマチの治療に努め、1919年1月6日に冠状動脈血栓で死亡。没年60歳。

1937年
【盗難事件】「名古屋城鯱の金鱗盗難事件」

1937年1月6日に愛知県名古屋市中区にある名古屋城の金鯱の鱗110枚58枚が盗難されていることが発覚。その後、同月27日に大阪在住のミシン職工の男(当時40歳)が逮捕され懲役10年の実刑判決を受けている。

1942年
【死去】アレクサンドル・ベリャーエフ(Aleksandr Romanovich Belyayev)【小説家/ソビエト連邦】

20世紀ソビエト連邦初のSF作家で“SFの父”ジュール・ヴェルヌにちなみ“ソ連のヴェルヌ”と称される人物。弁護士、新聞の編集長、郵政省職員などを経て1925年に処女作『ドウエル教授の首』を発表。翌年に作家生活へと入り『両棲人間』(1928年)、連作短編『ワグナー教授シリーズ』などを発表。作家活動を続けるも「第二次世界大戦」中に居住していたプーシキン市がナチスの占領下となり、その後1942年1月6日に飢餓により死去。没年57歳。

1949年
【急死】ヴィクター・フレミング(Victor Fleming)【レーシングドライバー・映画監督/アメリカ合衆国】

“男性映画の監督”と呼ばれた20世紀アメリカの映画監督で代表作『オズの魔法使い』『風と共に去りぬ』で知られる人物。カーレーサー、メカニックとして活躍していた時期に映画監督アラン・ドワンと出会い1910年に撮影アシスタント兼カー・スタントマンとなる。その後撮影監督や俳優、アメリカ陸軍の写真家を経て1919年に『暗雲晴れて』で映画監督デビュー。1927年に『フラ』、アカデミー賞主演男優賞を受賞した『肉体の道』を発表。1932年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに移籍しアカデミー主演男優賞を授賞した『我は海の子』(1937年)などを発表。1939年に『オズの魔法使』、作品賞などアカデミー9部門を受賞した『風と共に去りぬ』を発表し映画監督としての地位を確立。晩年はヒット作に恵まれず『ジャンヌ・ダーク』(1948年)を発表し1949年1月6日に心筋梗塞で急死。没年59歳。

1950年
【殺人事件】【未解決事件】【冤罪事件】「二俣事件」

1950年1月6日に静岡県磐田郡二俣町(現・浜松市天竜区二俣町)で大橋一郎さん(当時46歳)、妻(当時33歳)、長女(当時2歳)、次女(当時生後11カ月)の一家4人が何者かに殺害された事件。事件後、容疑者として須藤満雄(当時18歳)が逮捕されるも後に数多くの冤罪を作ったことで知られる静岡県警察警部補・紅林麻雄による拷問・自白強要であることが同僚警官・山崎兵八の告発書により発覚し1957年に須藤の無罪が確定した。告発した当時、山崎は偽証罪で逮捕され懲戒免職処分となり、その後紅林に賄賂を渡したとされる有力容疑者を名指しした『現場刑事の告発 二俣事件の真相』を1997年に自費出版している。

1951年
【大量虐殺事件】【ジェノサイド】「江華良民虐殺事件」

1951年1月6日から同月9日にわたり韓国政府が韓国・仁川広域市江華郡に属する江華島の非武装の島民およそ200人から1,300人を北朝鮮統治時代に北朝鮮へ協力したとして虐殺。

1975年
【引退】「ハイセイコー引退式」

1975年1月6日に東京都府中市・東京競馬場で『さらばハイセイコー』の流れる中、ハイセイコー(当時6歳)の引退式が行なわれる。中央競馬史上初めて引退式でコースを1周し生涯成績22戦13勝で競走馬としての幕を閉じた。

1976年
【放火事件】【テロ】「平安神宮放火事件」

1976年1月6日に京都市左京区の平安神宮が新左翼活動家・加藤三郎により放火され全焼する放火テロが勃発。その後、加藤は逃亡生活を送るも1983年に逮捕され現住建造物等放火罪等の罪で懲役18年の刑が確定、2002年に出所している。

1990年
【エイズ】イアン・チャールソン(Ian Charleson)【俳優/イギリス】

1981年の映画『Chariots of Fire(炎のランナー)』等で知られる俳優。私生活では同性愛者と知られ、1986年にHIVウィルスへの感染との診断を受けていたが、1990年1月6日に、8週間にわたる舞台で『ハムレット』を演じている期間中に死亡。没年40歳。

1995年
【テロ事件】「テロ計画『ボジンカ計画』発覚」

1995年1月6日に国際テロ組織アルカーイダによる爆弾テロ『ボジンカ計画』がフィリピン・マニラの同組織のアジトで発覚。計画が露見したのは爆弾製造中にアジトが爆発したことであった。

2006年
【死去】加藤芳郎【漫画家・タレント】

東京府立第六中学校夜間部に通学中からマンガの投稿で入選を重ね、終戦後の1945年に都庁職員から独立してプロの漫画家に。1954年から『毎日新聞』夕刊紙上で連載開始した『まっぴら君』は2001年6月23日掲載まで、47年間、13615回を数える代表作となった(病気が原因で連載中止)。テレビタレントとしても、『テレビ三面記事 ウィークエンダー』の司会、『連想ゲーム』の白組キャプテンとして長らくお茶の間の顔となった。2005年1月から胃ガンと診断され療養に努めたが、翌年1月6日に80歳没。

2008年
【死去】【夭逝】松本理恵【作詞家・シンガーソングライター】

1995年から2005年まで活躍した作詞家およびシンガーソングライター。作詞家として安室奈美恵の『Let’s not fight』やV6の『キミヘノコトバ』などを手掛ける。2006年からシンガーソングライターとしてソロ活動を開始。その後、心身症を患い2008年1月6日に死去。没年28歳。

2010年
【海難事故】【衝突事故】【自作自演】「シーシェパードの高速船「アディ・ギル」沈没」

2010年1月6日に南極海で日本の調査捕鯨船「第2昭南丸」へシーシェパードの高速船「アディ・ギル」が衝突。「アディ・ギル」の乗組員6人が救出されその後同船は沈没。事件後、衝突の瞬間のビデオを双方が公開し議論がなされるも同年10月に「アディ・ギル」の船長であったピーター・ベスーンがシー・シェパード代表ポール・ワトソンの指示により自作自演の行為であったことを暴露した。

2012年
【海難事故】【国際問題】「北朝鮮漂流船問題」

2012年1月6日に島根県・隠岐島近海の日本海で北朝鮮の漁民男性3人と衰弱死した男性1人が乗船していた小型木造船が寄せられた情報に基づき海上保安庁の巡視船と航空機の捜査により発見される。その後、日本政府は遭難と判断し男性3人の帰国手続きを取ることで合意した。

2013年
【自殺】趙成珉(チョ・ソンミン)【プロ野球選手・野球指導者/韓国】

高麗大学在学中から韓国球界期待の星として活躍し、卒業後、日本プロ野球の読売巨人軍に8年契約で入団した韓国人投手。速球を武器にした”コリアン・エクスプレス”の異名で将来を嘱望されていたものの、相次ぐ右肘の怪我で期待されたような成績は残せなかった。通算成績11勝10敗11セーブ。引退後は韓国ハンファに入団したが、こちらも3勝4敗4セーブという成績に終わっている。巨人在籍中の2000年に人気女優、チェ・ジンシル(崔真実)と結婚したが、チョによる衝撃的なDVが発覚し、たった2年で離婚。2008年にチェが、2年後の2010年にはチェの弟であり俳優のチェ・ジンシルが自殺し、ショックを受けていた矢先の2013年1月6日に、ソウルの元交際相手女性のマンションで首吊り自殺。没年39歳。遺書には、両親に先立つ息子の謝罪と、妻が遺していった二人の子供を守りきれないことへの懺悔が書かれていた。

2013年
【急死】石川洋【アナウンサー】

昭和から平成にかけて活躍したNHKのアナウンサー。1983年にNHKに入局しスポーツアナウンサーとして活躍。病で療養中の2013年1月6日に急死。没年53歳。

2015年
【死去】石井光三【経営者・タレント】

1939年からJO京都撮影所に所属し子役・脇役で活動後の1963年に引退し、芸能プロモーターとして活動開始。松竹芸能所属時にはミヤコ蝶々等のタレントのマネージャーを務め、1977年に独立し石井光三オフィスを設立後はコント赤信号などのマネージメントを手がけた。ラサール石井のモノマネで脚光を浴びた際、一時はバラエティ出演もこなした。2012年に肝内胆管ガンと診断され療養に努めたもの2015年1月6日に83歳没。

2018年
【海難事故】「石油タンカー・サンチ号衝突事故」

2018年1月6日に東シナ海・上海沖でペルシア湾から韓国へ向かっていたパナマ船籍の石油タンカー「サンチ号」と香港船籍の貨物船「CFクリスタル号」が中国・長江河口沖で衝突。衝突後「サンチ号」は一週間にわたり炎上し続けながら南東方向へ漂流、沖縄の北東付近で沈没した。