『死の2日前に発表されたデヴィッド・ボウイのアルバム「Black Star」のジャケット』

2016年1月10日は、1960年代後半からその独特な世界観で世界のポップミュージックシーンを牽引した不世出のミュージシャン、デヴィッド・ボウイが死亡した日である。
その死の18カ月前に医師から肝臓ガンとの診断を受けていたボウイであったが、プロデューサー以外の参加スタッフ全員にはその病気を隠しながら、秘密裏に最期の作品作りへ取りかかり、2016年1月8日、自らの69歳の誕生日に最新アルバム『Black Star』を発表。
その2日後に、肝癌ガンで亡くなったことが公式Facebookで公表された。
特にその収録曲『Lazarus』の歌詞は、「Look up here, I'm in heaven」で始まり、近い将来の死を意識して作られた曲であると言われている。
1年以上をかけて製作された最期のアルバムは、長年支えてくれたファンへの遺書と呼ぶに相応しいタイミングのものであり、完全主義者ともいわれる生前のボウイらしい丁寧な仕事であった。
時に“カルト”とも形容された挑戦的な表現を追求したアーティストであったために、知名度のわりに商業的な成功を収めていたと言い難い音楽活動であったが、周到に用意された“最期のメッセージ”は、自身初のビルボード全米チャートの1位を獲得した。
デヴィッド・ボウイは、自殺以外の方法でここまで思い通りの死がデザインできるということを、その類い希な才能で最後に証明してみせたのである。

(写真はWikipedia Black Starより使用。Public Domain)

1月10日の不幸

1917年
【死去】バッファロー・ビル(Buffalo Bill)【ガンマン・投資家/アメリカ合衆国】

“バッファロー・ビル”の愛称で知られる西部開拓時代に活躍したアメリカのガンマン。本名はウィリアム・フレデリック・コディー(William Frederick Cody)。1861年、郵便速達サービスのポニー・エクスプレスで働き、1867年にバッファロー・ハンターへ。「南北戦争」時にはアメリカ陸軍のスカウトとしてワイルド・ビル・ヒコックの部隊を救出するといった活躍をみせる。1869年、ビルの半生を作家ネッド・バントラインが大衆向け小説としてダイム・ノベルから出版。これによりアメリカで”バッファロー・ビル”の名が知られるように。1872年、名誉勲章を受章。1880年代から駅馬車襲撃などを実演するショーを展開し欧米を巡業。1887年、ネブラスカ州の国家警備隊の大佐に就任。1896年からワイオミング州を開拓、1899年に新聞会社コーディ・エクスプレスを設立。1905年、バッファロー・ビル・ダムが完成。1917年1月10日、腎不全により死去。没年70歳。

1922年
【死去】大隈重信【政治家・教育者・武士】

佐賀藩士に生まれ、幕末の尊皇派として活動。明治維新後は参議兼大蔵卿として活躍し、外務大臣、農商務大臣を経て1898年に第8代内閣総理大臣に就任。薩長藩以外では初の総理大臣となったが、アメリカとの外交に失敗したことが元でわずか4カ月で総辞職。1907年には政界を引退し、早稲田大学を創設するなど、教育者として活動していた。その後の大正期の第一次護憲運動とともに政界に復帰し、1914年に17代内閣総理大臣に就任。第一次世界大戦に参戦するとともに内務大臣、外務大臣を兼任したが、次第に求心力を失い1916年10月に内閣総辞職(辞職時の満78歳6カ月という年齢は歴代総理大臣中最高齢)。政界からも完全に引退し、1922年1月10日に胆石症で死亡。没年83歳。1月17日に日比谷公園で国葬が行なわれ、30万人もの一般客が駆けつける騒ぎとなった。

1947年
【死去】織田作之助【小説家】

昭和初期から戦後にかけて活躍した無頼派を代表する作家。代表作に『夫婦善哉』『青春の逆説』等多数。1946年12月に結核が悪化し大量の吐血。翌年1月10日に死亡した。

1954年
【航空事故】「英国海外航空781便墜落事故」

1954年1月10日、BOAC(英国海外航空)の781便(デ・ハビランド社製コメット3号機”ヨーク・ピーター”)が、経由地ローマ・チャンピーノ空港を離陸後、地中海エルバ島上空で空中分解し墜落した事故。事故は機体胴体部分の金属疲労が原因で起こったことが判明。この事故により乗客・乗員合わせて35人全員が死亡した。

1967年
【死去】ラダ・ビノード・パール(Radhabinod Pal)【法学者/インド】

「パール判決書」で知られる「第二次世界大戦」後に活躍したインドの法学者。カルカッタ大学で理学修士を取得後、1910年にインド連合州会計院書記生へ就職。その後、弁護士、大学法学部教授などを経て1927年にインド植民地政府の法律顧問へ。1937年、国際法学会総会議長団へ選出。1945年、インド代表判事として極東国際軍事裁判へ参加、この時、国際法に反するといった理由から被告人全員の無罪を主張した意見書(パール判決書)を提出した。1952年、国際連合国際法委員会委員へ就任。1966年、勲一等瑞宝章授与。晩年まで法学者として活動し1967年1月10日に死去。没年80歳。

1971年
【死去】ココ・シャネル(Coco Chanel)【ファッションデザイナー・実業家/フランス】

今や定番となった”シャネル・スーツ”でそれまでの女性のライフスタイルまでを一変させた20世紀を代表するファッションデザイナー。著名人との交流や、早くから洋服だけでなくオリジナルの香水を発売するなどの商才を発揮し、自らのブランド「シャネル」を、世界を代表する最高級ブランドに仕立て上げた。晩年は孤独からの不安に苛まれ、毎日モルヒネの注射を打ちながら生活をしており、1971年1月10日にパリの常宿、ホテル・リッツでコレクションの準備中に死亡した。87歳没。第二次大戦中に占領下のフランスでドイツ人将校らとの交際で”ナチスの協力者”として批判された時期もあったためにフランスの高級墓地での埋葬を拒絶され、亡命先であったスイス・ローザンヌで埋葬されている。

1976年
【死去】ハウリン・ウルフ(Chester “Howlin’ Wolf” Burnett)【歌手/アメリカ合衆国】

唯一無二のうなり声のような歌唱法で、1950年代〜1970年代にかけて常に独特の存在感を放ち続けたブルース・シンガー。代表作にアルバム『Moanin’ in the moonlight』『The Howlin’ Wolf Album』等。1960年代から徐々に体調を崩し始め、1970年代に数回の事故でライブの曲数を6曲に制限しながら活動を続けた。腎臓病の合併症で65歳没。

1990年
【死亡】栃錦清隆【大相撲力士・指導者】

同時代に活躍した横綱、初代若乃花とともに”栃若時代”と呼ばれる黄金期を築いた大相撲第44代横綱。”技の博覧会”と呼ばれた相撲巧者ぶりで幕内最高位優勝10回を挙げた。幕内通算成績513勝203敗1分32休。全盛期ともいえる1960年5月場所に34歳で引退。その後は年寄春日野として後進の指導に当たり、1974年に第5代日本相撲協会理事長に就任。両国国技館への移転を成功させるなど、14年にわたり長期的な政権を築いた。1988年に理事長職を二子山(元初代若乃花)に譲り、相談役に就任。翌1989年11月に脳梗塞で倒れ、そのまま翌年1月10日に死亡した。没年64歳。

1990年
【死去】ジュリエット・ベルト(Juliet Berto)【女優・映画監督】

映画初出演作となった1967年の映画『彼女について私が知っている二、三の事柄』以降、『中国女』、『ウイークエンド』、『たのしい知識』、『ウラジミールとローザ』と立て続けにジャン=リュック・ゴダールの作品に出演し続けたヌーヴェルヴァーグ期の人気女優。1980年代以降は映画監督に転身し、1981年の『Neige(雪)』で第34回カンヌ国際映画祭若い映画賞を受賞するなど将来を嘱望されたが、1990年1月10日に乳ガンのために42歳で死亡した。

2002年
【死去】田中一光【グラフィックデザイナー】

昭和を代表するグラフィックデザイナーのひとり。京都市立美術専門学校を卒業後、1952年に産経新聞社へ入社。翌1953年、日宣美会員へ。1960年日本デザインセンター創立へ参加。1963年から独立し田中一光デザイン室設立。1968年日本万国博覧会政府館1号館展示設計責任者へ就任。1975年から西武流通グループクリエイティブディレクターへ。その後もデザイナーとして活躍し、ニューヨークADC金賞(1986年)、日本文化デザイン大賞(1991年)、紫綬褒章受章(1994年)といった賞を受賞。2002年1月10日、急性心不全のため死去。没年71歳。

2004年
【自殺】ジャック・モイヤー(Jack T. Moyer)【学者/アメリカ合衆国】

クマノミの性転換、三宅島に生息するミヤケテグリの発見等で知られるアメリカの海洋生物学者であり、1957年以降の半生を日本の三宅島に永住し過ごした人物。大学在学中に朝鮮戦争に兵士として参加し、大統領の側近に訴え大野原島のカンムリウミスズメを爆撃訓練から救ったことでも知られている。大学卒業後の1957年に中学英語教師として三宅島に赴任。同地で海洋生物の研究を続け、数々の論文を発表。1984年には東京大学の博士号を取得した。2000年に三宅島が噴火すると東京都北区に避難。そのまま2004年に避難先の東京赤羽の都営団地で自殺した。没年74歳。死後の2014年に生前勤務していたアメリカンスクール・イン・ジャパンで長期にわたり数十人の女生徒に性的暴行を行なっていたことが判明。自殺の直前に被害者たちから事件を公表することを告げられたことが、その原因であったと類推されている。

2005年
【社会事件】【軍不祥事】「韓国陸軍訓練所食糞事件」

2005年1月10日、韓国忠清南道論山市にある大韓民国陸軍・新兵訓練所内で起きた新兵虐待事件。事件はトイレの水を流さない新兵がいた事に対し、その制裁として訓練所教官イギョンジンが新兵192人に人糞を指に付着させ食糞するよう強制。新兵が告発の手紙を出したため発覚、同教官は軍刑法違反で逮捕されている。

2016年
【死去】デヴィッド・ボウイ(David Bowie)【ミュージシャン・俳優/イギリス】

1960年代後半から『スペイス・オディティ』『ジギー・スターダスト』等その独特な世界観で世界のポップミュージックシーンを牽引したミュージシャン、ロック・スター。『戦場のメリークリスマス』等多くの映画に出演した俳優としても知られている。その死の18カ月前に医師から肝臓ガンとの診断を受けていたが、プロデューサー以外のスタッフ全員にはその病気を隠しながら、秘密裏に最期の作品作りへ取りかかり、2016年1月8日、自らの69歳の誕生日に最新アルバム『Black Star』を発表。その2日後に、肝癌ガンで亡くなったことが公式Facebookで公表された。

2016年
【死去】竹田圭吾【ジャーナリスト・コメンテーター】

平成に活躍したジャーナリストおよびコメンテーター。慶應義塾大学卒業後、アメリカンフットボール誌『月刊タッチダウン』の記者となり、1993年にTBSブリタニカへ入社。週刊誌『ニューズウィーク日本版』の編集部へ配属され、同誌の編集長を務める。その後、フリーランスとなり関西テレビの『Mr.サンデー』、テレビ朝日の『やじうまプラス』といった情報番組のコメンテーターとして活動。2015年、ガンの治療中であることを番組ないで告白し、翌2016年1月10に膵臓ガンで死去した。没年51歳。

2017年
【死去】ローマン・ヘルツォーク(Roman Herzog)【法学者・政治家/ドイツ】

21世紀ドイツの法学者で第7代連邦大統領(1994年〜1999年)となった人物。ミュンヘン大学で法学を学び、大学教授などを経て、1970年にキリスト教民主同盟へ入党。1973年にヘルムート・コール州の州次官級全権代表に任命。1978年、バーデン・ヴュルテンベルク州文化・スポーツ大臣に就任。1980年に同州議会選挙に出馬し当選し、1982年に同州内務大臣へ。翌年、連邦憲法裁判所判事に就任したため、州議会議員を辞職。1994年、連邦大統領候補に指名され第7代連邦大統領へ選出。1999年に退任し、その後も政治活動は続け2017年1月10日、肺炎により死去。没年82歳。