『東京巨人軍のユニフォームで投球するスタルヒン』

1957年1月12日は、ロシアから亡命し、生涯無国籍のまま黎明期の日本プロ野球で伝説的な成績を残した大投手、ビクトル・スタルヒンが死亡した日である。
日本プロ野球初の外国生まれの選手でありながら、歴代6位の通算303勝、稲尾和久と並び歴代最多のシーズン42勝等、そして歴代1位の通算83完封勝利という爆発的な成績を残したスタルヒン。
しかし華々しい活躍の一方で、多くの影がその生涯にはつきまとった。
まずロシア革命で迫害され、両親と共に1925年に満州国経由で北海道旭川に亡命。
9歳の頃には小学校に通っていたために日本語も堪能で、ほとんど全ての生活を日本人として送っていたが、あまりに日本人離れした白系ロシアのルックスのために、生涯日本に帰化することはできなかった。
つまり、生涯通じて無国籍であったのである。
さらに、父親が自営していた喫茶店の従業員に対し殺人を犯してしまい、少年期に“人殺しの子”という負い目まで背負っていた。
そのことがプロ入りに関しても大きく関わり、国外追放をチラつかせた読売新聞のオーナー・正力松太郎の意向で中学を中退して半ば強引に東京巨人軍入りすることとなった。
プロ入り後は持ち前の速球でノーヒットノーラン、シーズン42勝を達成するなど大活躍をしたものの、1939年にソ連との「ノモンハン事件」を受けて須田博に改名。
しかし日本が第二次大戦へと向かう中、敵性人種と見なされて軽井沢に軟禁され、球界追放の憂き目に遭う。
驚くべきことに、スタルヒンのその伝説的なキャリアは、30代の全盛期に中断されての成績なのである。
そして戦後にパシフィック(後の松竹ロビンス)で球界に復帰、金星スターズ(後に大映スターズ)、高橋ユニオンズ(後にトンボユニオンズ)と渡り歩き、1955年に300勝を達成し、その年に引退した。
紆余曲折を経て豪腕で栄光を掴んだスタルヒンであったが、その最期も大きな影に覆われている。
現役引退から二年後、自らの運転する自動車で、前方の車に追い越しをかけた際に東急多摩川線に正面衝突、交通事故死を遂げたのだった。
中学校の同窓会に出席するために同級生を乗せて走っていたはずであったが、スタルヒンの運転する車は同窓会の会場とは全く違う方向に向かっており、事故の直前に同級生を電車で会場に向かわせていたという。
友人らによればスタルヒンはその時飲酒状態であったというが、果たして、孤独の大投手は、自らの意志で自殺を選んだのであろうか。

(画像はWikipedia Victor Starffinより使用。Public Domain)

1月12日の不幸

1665年
【死去】ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat)【学者/フランス】

フランスの裁判官であり、“数論の父”といわれた数学者。パスカルとの共同作業で確率論を体系化し、デカルトらと解析幾何学を作り出した。その最大の功績といわれる自然数に関する『フェルマーの定理』は死後330年にもわたり誰もが証明・否定ができず、数学界の大テーマとしてその発展を牽引し続けた(1995年にイギリスの数学者、アンドリュー・ワイルズが証明)。1665年1月12日にカストルにて死亡。没年57歳。

1909年
【急死】ヘルマン・ミンコフスキー(Hermann Minkowski)【学者/ロシア(リトアニア)】

アインシュタインの『特殊相対性理論』における「時空」を数学的に定義した『ミンコフスキー空間』で知られる世界的数学者。ケーニヒスベルク大学卒業後ボン大学客員教授となり、1894年にケーニヒスベルク大学助教授に。さらに1896年にスイス連邦工科大学準教授に就任し、その時の教え子のひとりにアインシュタインがいた。1902年にゲッティンゲン大学教授に就任し終生務めた。1909年1月12日に虫垂炎で急逝。没年44歳。同年『空間と時間』が発表された。

1942年
【自殺】セオドール・アンネマン(Theodore Annemann)【奇術師・メンタリスト/アメリカ合衆国】

マジシャンのための雑誌『The Jinx』の編集発行人であり、近代メンタリズムの発展に多大な貢献を果たしたマジシャン。2週間後に初の室内での銃弾キャッチのイリュージョンを予定していたが、その目前の1942年1月12日に自殺。没年35歳。

1957年
【怪死】【交通事故死】ヴィクトル・スタルヒン(Victor Starffin)【プロ野球選手】

両親と共にロシアから亡命し、生涯無国籍のまま黎明期の日本プロ野球で伝説的な成績を残した大投手。日本プロ野球初の外国生まれの選手でありながら、歴代6位の通算303勝、稲尾和久と並び歴代最多のシーズン42勝等、そして歴代1位の通算83完封勝利という爆発的な成績を残した。東京巨人軍入りし、持ち前の速球でノーヒットノーラン、シーズン42勝を達成するなど大活躍をしたがノモンハン事件を受けて須田博に改名。戦中は敵性人種と見なされて軽井沢に軟禁され、球界追放。戦後にパシフィックで球界に復帰、金星スターズ、高橋ユニオンズと渡り歩き、1955年に300勝を達成し、その年に引退した。現役引退から二年後、自らの運転する自動車で、前方の車に追い越しをかけた際に東急多摩川線に正面衝突、交通事故死。中学校の同窓会に出席するために向かっていたはずであったが、会場とは全く違う方向に向かっていたという。

1976年
【死去】アガサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie)【小説家/イギリス】

“ミステリーの女王”と呼ばれその著作は全世界で10億部以上のセールスを記録したと言われている世界的推理小説家。代表作に『オリエント急行の殺人』『ABC殺人事件』『そして誰もいなくなった』等多数。人気絶頂の1926年に11日間の失踪事件を起こし世界を騒がせたことも。また、1943年に執筆した 『カーテン』『スリーピング・マーダー』を自らの死後に発売する”死後出版”の契約をしたことでも知られている。1976年1月12日、ウォリングフォードの自宅にて風邪を悪化させ死亡。没年85歳。

2003年
【死去】深作欣二【映画監督】

日大芸術学部卒業後東映に入社。同社での記録的ヒット作となった『仁義なき戦い』の監督として世界中に名を馳せた映画監督。長い監督人生を通じて暴力描写にこだわり、その姿勢は遺作となった『バトルロワイヤルⅡ 鎮魂歌』(撮影中に死去)まで貫かれた。2002年9月25日に前立腺ガンの脊椎転移を公表、その後『バトル・ロワイアルII 鎮魂歌』の制作にかかったが、12月16日の撮影開始後すぐとなる21日に入院。肺炎を併発するなどして31日には意識不明にまでなったが年を越して回復。しかし12日に死亡した。没年72歳。その臨終を妻の中原早苗と息子の健太、そして俳優の菅原文太、渡瀬恒彦、藤原竜也らが看取った。

2003年
【急死】【手術死】モーリス・ギブ(Maurice Ernest Gibb)【ミュージシャン/イギリス】

双子の兄弟のロビン、兄のバリーと結成したボーカルグループ「ビージーズ」で世界的に成功したミュージシャン。『First of May』『メロディ・フェア』『Stayin’ Alive』『How Deep Is Your Love』など大ヒット曲多数。グループ内では主に作曲、録音の面で貢献し、リードギターやバックコーラスで活躍した。2003年1月12日にマイアミビーチの病院で腸捻転の合併症での手術中に急死。

2004年
【死去】ランディ・ヴァンウォーマー(Randy VanWarmer)【シンガーソングライター/アメリカ合衆国】

1979年の代表曲『Just When I Needed You Most(アメリカン・モーニング)』で知られるシンガーソングライター。2003に白血病と診断され骨髄移植手術を受けたものの、翌年1月12日に死亡。没年48歳。死後の2007年と2012年に仮装された遺灰がスペースXファルコン9ロケットに乗せられて宇宙空間に発射されている。

2019年
【死去】市原悦子【女優・ナレーター】

長寿アニメ『まんが日本昔ばなし』のナレーション、そして晩年のヒットドラマ『家政婦は見た!』シリーズの主役で知られる、国民的演技派女優。少女期から演劇部で活動し高校卒業後、劇団俳優座養成所に6期生として入所し1957年に俳優座に入団。『りこうなお嫁さん』でデビュー。俳優座養成所で同期だった演出家・塩見哲と1961年に結婚し、1971年10月に二人揃って独立。1975年にアニメ『まんが日本昔ばなし』が放送開始。同年昼ドラ愛の劇場『赤い殺意』で主婦を演じ驚異的な視聴率を記録。1983年から開始されたテレビドラマ『家政婦は見た!』は2008年まで続く大ヒット作となった。2012年にS状結腸腫瘍手術のため映画『東京家族』を降板。2014年4月21日に塩見哲と死別。2017年1月13日に自己免疫性脊髄炎の治療のため芸能活動の休業を発表。翌年のNHK大河ドラマ『西郷どん』のナレーションで復帰と発表されたものの最終的には降板。2018年3月21日放送のバラエティ『おやすみ日本 眠いいね!』で復帰するが、2018年12月下旬に盲腸で入院。手術をせず投薬治療続けたが自宅に戻ったところ体調が悪化し1月5日から再入院。そのまま12日に心不全で死亡。没年82歳。