『弟の滋郎と写る出撃寸前の小野田寛夫(写真右)』

2014年1月16日は、太平洋戦争敗戦直前の1944年12月31日に、フィリピン・ルバング島に派兵されたまま30年以上も戦闘を続けた旧日本兵、小野田寛夫が死亡した日である。
その孤独な軍人生活が世界的に評価される一方、その2年前にアメリカ領グアム島に同様に潜伏し続け帰国した横井庄一氏とは異なり、帰国後の日本の生活に馴染めなかった小野田は、帰国後半年でブラジルに移住し、晩年まで帰ることはなかった。
最晩年を保守の活動家として過ごしたほどの愛国心を持った人物でありながら、その人生の大半を異国で送った小野田。
孤独感の強いその特異な人生は、果たして不幸であったのだろうか——《人の心の中にある祖国とは何か》を考えさせるその人生である。

(写真はWikipedia Hiroo Onodaより使用。Public Domain)

1月16日の不幸

1710年
【死去】東山天皇【天皇】

江戸時代に第113代天皇(1687年〜1709年)となった人物。第112代霊元天皇の息子として生まれ1687年に天皇へ即位し同年に廃絶していた大嘗祭の儀式が復活。即位後は霊元上皇が院政を行なう。1701年に東山天皇の勅使・柳原資廉と高野保春の接待をめぐり、接待役・赤穂藩主浅野長矩が指南役・高家吉良義央を斬りつける「松之大廊下の刃傷事件」が勃発。1709年に中御門天皇へ譲位し院政を開始するも 1710年1月16日に天然痘で死去。没年34歳。

1742年
【自殺】ニコラ・ルブラン(Nicolas Leblanc)【化学者・医師/フランス】

塩化ナトリウムから炭酸ナトリウムを合成する「ルブラン法」を発見し、イギリスの化学工業に絶大な貢献を果たした化学者であり、外科医。晩年は化学工場を革命政府に没収されるなど貧困にあえぎ、鬱病を患い1742年1月16日にピストル自殺。没年63歳。

1979年
【1979年イラン革命】「イラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィー亡命」

1978年からイランでシーア派宗教指導者・ホメイニによる反政府運動やテロ事件が続発。これに対しイラン皇帝モハンマド・レザー・パフラヴィーは軍人内閣を樹立させ弾圧を強化するも運動は激化し続け1979年1月16日にパフラヴィーがエジプトへ亡命。同年にイラン=イスラーム共和国が成立することとなった。

1981年
【死去】バーナード・リー(Bernard Lee)【俳優/イギリス】

1962年にスタートした人気映画シリーズ『007』のM役を演じたことで知られる俳優。孫に同じく俳優のジョニー・リー・ミラーがいる。1980年に胃ガンと診断され、73歳となった6日後である1981年1月16日に死亡。

2003年
【急死】秋山庄太郎【写真家】

昭和から平成にかけて活躍した写真家。10代で写真に興味を持ち大学時代に写真部へ入部するも嫌気がさして酒浸りの生活を送る。大学卒業後の1943年に自費で初の作品集『翳』を発表。1946年に写真家・稲村隆正らと写真館「秋山写真工房」を開設し本格的に写真家としての活動を開始。1947年に同工房を解散し近代映画社写真部へ入社。1951年にフリーカメラマンへ。1966年に日本写真専門学院の講師となりこの頃から花の写真を主に手がける。1971年に株式会社秋山写真工房を設立、初代社長へ就任。同年に日本広告写真家協会会長、日本写真家協会常務理事へ就任。1979年に日本写真専門学院院長、日本広告写真家協会名誉会長へ就任。1982年に日本写真芸術専門学校初代校長へ就任。1986年に紫綬褒章を受章。1990年に日本写真家協会名誉会長へ就任。1993年に勲四等旭日小綬章を受章。1994年に全日本写真連盟副会長、日本デザイナー学院校長に就任。1997年に日本写真協会副会長へ就任。2003年1月16日、林忠彦賞審査中に心筋梗塞で倒れ同日に死去。没年82歳。

2013年
【死去】佐久間正英【ミュージシャン・音楽プロデューサー】

ロックバンド「四人囃子」のベーシストとして活躍後、「プラスチックス」でも活躍したミュージシャン。1980年頃からプロデュース業に移行しながら「BOØWY」、「THE BULUE HEARTS」、渡辺美里、「JUDY AND MARY」等、数々の人気ミュージシャンの作品長年にわたりを手がけた。2013年8月9日に公式ウェブサイト上で末期のスキルス胃ガンを公表し、2014年1月16日に死亡。没年61歳。死後の1月20日に公式ツイッター上で、実子の音哉により死亡報告のツイートがされた。

2014年
【死去】小野田寛郎【軍人・実業家】

太平洋戦争敗戦直前の1944年12月31日に、フィリピン・ルバング島に情報将校として派兵された元陸軍少尉。翌8月15日の日本の敗戦を知らないまま、赤津勇一、島田庄一、小塚金七らと共に現地で戦闘を続け、ジャングルで諜報活動を続けた。同年9月に戦死公報を出されたが、5年後の1950年に赤津が投降したことにより小野田ら3人の存在が判明。しかし投降をしなかった小野田は、1974年に冒険家の鈴木紀夫に説得されるまで、そのまま30年以上も戦闘を続けた。1974年3月10日にフィリピン軍の基地で投降。当時のマルコスフィリピン大統領によりその潜伏期間の殺傷や盗難の罪を恩赦され、3月12日に帰国した。その2年前にアメリカ領グアム島に同様に潜伏し続け帰国した横井庄一氏とは異なり、帰国後の日本の生活に馴染めず、帰国後半年でブラジルに移住。農場を経営するなどして成功を収めた後に帰国。私塾「小野田自然塾」を立ち上げるなど、晩年を保守の活動家として過ごした。2014年1月16日に肺炎で死去。没年91歳。

2019年
【引退】「大相撲横綱の稀勢の里引退」

2019年1月16日に大相撲横綱・稀勢の里寛が生涯戦歴101場所800勝496敗97休・横綱在位としては短い12場所での引退を表明。同日に年寄・荒磯を襲名し田子ノ浦部屋付きの親方となった。