『幸徳秋水のポートレート』

1911年1月18日は、明治期にアナーキストとして活動した思想家、幸徳秋水が、明治天皇暗殺を企てた首謀者として逮捕された「幸徳事件」の罪で死刑が決定した日である。
前年の5月25日に爆弾の製造所有で逮捕された宮下太吉、新村忠雄らの「明科事件」以来、「大逆事件」として社会主義活動家が大量に検挙された流れでの極め付きが、6月の幸徳の逮捕であった。
そして1月18日に、公徳を含む24人の死刑が確定したのだ。
しかし、『直接行動論』などを掲げ国体変革を迫る過激な活動をしていたとはいえ、あくまでも著作による文章表現にとどまっていた幸徳を「明治天皇暗殺の首謀犯」とするのは強引に過ぎ、後年、政府による容疑の捏造であることが有力とみられている。
逮捕後、国内はもとより世界的に講義の声が上がったが、死刑執行までがこの日の決定からたったの6日であったこともあり、当時の政府がいかに社会主義者を恐れ弾圧していたかがわかる事件である。
共謀罪法案など、過剰なテロ対策法案が話題に上っている現在、「幸徳事件」は思い起こされるべき《不の記憶》であろる。

(画像はWikipedia Shusui Kotoku より使用。Public Domain)

1月18日の不幸

1862年
【死去】ジョン・タイラー(John Tyler)【政治家/アメリカ合衆国】

アメリカ建国史上最初に大統領の死で副大統領から大統領となった人物であり、第10代アメリカ合衆国大統領を務めた人物。政党に所属しない大統領として在任末期の1845年3月1日にテキサス併合等の功績を残した。退任後に南部連邦の下院議員に選ばれたが、就任前に気管支炎で死亡。没年71歳。テキサス州のタイラーはジョンの名前にちなみ名付けられた地名である。

1864年
【死去】音吉【船頭・漂流民】

江戸時代の船頭であり、1832年10月に鳥羽から江戸に向けて出発したところ暴風雨で遭難し、14カ月太平洋を彷徨った末にアメリカのオリンピック半島フラッタリー岬に漂着した人物。アメリカ・インディアンのマカー族に救出され、奴隷労働をさせられた後にイギリス船に売却され、イギリスに到着。日本人で初めてイギリスに上陸した人物として知られている。1837年7月30日にマカオ経由で帰国を目論むが、「モリソン号事件」で日本から砲撃され帰国は不可能に。その後アメリカ経由で上海に定住し、商社や英米軍の日本語通訳として活躍した。晩年は二人目の妻ルイーザの故郷であるシンガポールに移り住み(シンガポール初の日本人定住者)、1864年にイギリスへ帰化。John Matthew Ottosonと名乗り、1967年1月18日に死亡した。没年49歳。なお、音吉の遺言により息子のジョン・W・オトソンは1879年に日本へ帰国し、横浜で日本人と結婚。その後日本に帰化し「山本音吉」を名乗った。

1911年
【思想弾圧】【クーデター】「幸徳事件(大逆事件)」

明治天皇暗殺を企てたとして逮捕された「幸徳事件」の罪で幸徳秋水ら24人の死刑が決定(2人に有期刑の判決)。結果的には明治天皇の意向で12人の死刑は免除され無期刑となったが、わずか6日後の1911年1月24日に幸徳秋水、宮下太吉、新村忠雄、古河力作ら11人が処刑、翌日に管野スガが処刑された。

1980年
【死去】セシル・ビートン(Sir Cecil Walter Hardy Beaton, CBE)【写真家・衣装デザイナー/イギリス】

戦前戦後にかけて『ヴァニティ・フェア』や『ヴォーグ』でファッション写真カメラマンとして一時代を築いたフォトグラファー。「ザ・スミス」のシングル『The Boy With The Thorn In His Side』のトルーマン・カポーティの写真の作家として知られる。晩年は衣装デザイナーとして数々の映画で活躍。1958年の『Gigi(恋の手ほどき)』でアカデミー衣裳デザイン賞、1964年の『マイ・フェア・レディ』でアカデミー衣裳デザイン賞とアカデミー美術賞を同時受賞した。1980年1月18日に76歳没。

1999年
【死去】土居まさる【アナウンサー・司会者】

1964年に文化放送にアナウンサーとして入社後、『ハローパーティー』『セイ!ヤング』等の深夜ラジオのDJとして人気を博し、その後は人気司会者としてフジテレビに出向しテレビ業界にも進出した。1970年に司会者として独立。1971年にスタートした『TVジョッキー』が人気番組となり、長きにわたり活躍した。続いて1979年に始まったテレビ朝日のクイズ番組、『象印クイズ ヒントでピント』は16年もの長寿番組となり、日曜夜のゴールデンタイムの顔として活躍した。1998年9月にガンの告知を受け、翌年1月18日に膵頭部ガンで死亡。没年58歳。

2003年
【死去】ザ・シーク(The Sheik/Edward George Farhat)【プロレスラー/アメリカ合衆国】

レバノン系アメリカ人の容貌を活かし、アラブ人レスラーのギミックで一世を風靡したプロレスラー。NWAで活躍後、デトロイトで「NWAビッグ・タイムレスリング」を設立し、現役レスラーながらプロモーターとしても活動を開始。その後WWWFにも参戦するなど、アラブ系レスラーのルーツとして活躍した。日本でも1972年に日本プロレスに参戦以降、大蛇や火炎攻撃等の反則を多用する”アラビアの怪人”として活躍。全日本、新日本とメジャー団体で長きにわたり活躍。晩年は甥にあたるサブゥーを伴って1991年に10年ぶりの来日を果たすなど活躍を続けたが、1988年12月11日に現役を引退。2003年1月18日に心不全で死亡したことが、かつてのタッグパートナーでもあった盟友のアブドーラ・ザ・ブッチャーにより明かされた。没年76歳。死後の2007年にWWE殿堂に迎え入れられた。

2010年
【死去】ミッキー安川【タレント・ラジオパーソナリティ】

アメリカ留学経験を活かした語学力と歯に衣着せぬ物言いでレポーター、コメディアンとして活躍したタレント。2009年12月20日のラジオ番組『ミッキー安川の雑オロジー』の放送直前に体調不良を起こし息子のマットに代役として起用。その3日後の23日に開催した『ミッキー安川ディナーショー』当日に肺炎を起こし入院。そのまま翌年1月18日に死亡した。没年76歳。

2015年
【死去】大豊泰昭(陳大豊/Ta-Feng Chen)【プロ野球選手・スカウト・実業家/台湾】

学生時代から台湾を代表する選手として活躍後、1984年に名古屋商科大学に入学するために来日。卒業後に中日ドラゴンズの球団職員として1年勤務し、1988年のドラフト2位で日本人選手扱いでドラゴンズ入り。同郷のスター王貞治に倣った一本足打法の左の大砲として活躍。1994年には38本塁打107打点を挙げその年の2冠王に輝いた。した。成績を落としていた1998年に2対2の大型トレード(矢野輝弘と大豊、関川浩一と久慈照嘉)で阪神タイガースへ移籍。2000年に通算250本塁打、1000安打を放つなど活躍したが、そのシーズン後に自由契約となり、2001年からは再びドラゴンズへ。翌年現役引退となった。通算成績277本塁打1,089安打722打点、打率.266。引退後は中日のスカウトとして活動する傍ら、名古屋市に「大豊飯店」を開業。第2の人生を歩んでいた矢先の2009年3月に急性骨髄性白血病を発症。その後入退院を繰り返しているうちに店は閉店となり、2015年1月18日に死亡。没年51歳。