『拳銃自殺直前に周囲の人間を制するバド・ドワイヤー』

1987年1月22日は、アメリカのペンシルベニア州上院議員、バド・ドワイヤーが、自らに下された収賄罪の有罪判決に抗議するために記者会見を開き、その場で拳銃を口に突っ込み自殺を遂げた日である。
この自殺は公衆の面前で、しかもカメラのあるところで撮影された自殺としては世界の有史以来最も有名な自殺のひとつである。だが不思議なことに、このテンションの高い芝居がかったその表情が、近年はもはや死を超越してポップカルチャーに転じてしまっているのだ。
アメリカのバンド「Rapeman」は1988年に『Budd』なるEP盤をリリース、人気オルタナティブ・バンドの「Faith No More」は1992年にバド・ドワイヤーの最期のテープの音源をサンプリングした楽曲『World Is Yours』をリリース、「Fit for an Autopsy」なるデスコア・バンドは直球そのものの『Thank You Budd Dwyer』なる曲を2013年に発表した。
その以前からTシャツになるほど有名であったこの自殺だが、本人の意図を遙かに超えて人気が出てしまった現状は、やはり《不幸》としかいいようがない。

(写真はWikipedia R. Budd Dwyer より使用)

1月22日の不幸

1851年
【処刑】国定忠治【侠客・博徒】

江戸時代後期の侠客および博徒で現代では大衆演劇や講談などの題材となっている人物。本名は長岡忠次郎で「国定」は生地の上野国佐位郡国定村に由来する。1827年、博徒・大前田英五郎の元に身を寄せ、百々村(どうどうむら)の博徒の親分となる。1834年、大前田と対峙していた博徒・島村伊三郎を殺害したことで関東取締出役に追われ赤城山に潜伏。逃走後の1835年に日光例幣使街道・玉村宿を縄張りとする玉村京蔵・主馬兄弟と対立し同兄弟を殺害。一方、同時期に起こった「天保飢饉」では農民を救済している。その後も私闘と逃走を繰り返し、1846年に中風を患ったことで引退。1850年、関東取締出役により捕縛され翌1851年1月22日に大戸処刑場で磔の刑に処され死去。没年41歳。

1901年
【死去】ヴィクトリア(Victoria)【王族/イギリス】

イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(1837年〜1901年)および初代インド女帝(1877年〜1901年)となった人物で治世下は「ヴィクトリア朝」と呼ばれ、大英帝国を象徴する女王として知られる。1837年に即位し1840年にドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国公子アルバートと婚姻。1861年にアルバートが死去するとおよそ10年にわたり喪に服し、1870年代から再び公務へ復帰。以後、世界各地を植民地化・半植民地化に乗り出し大英帝国の最盛期を迎え、1876年に初代インド女帝に即位。1901年1月22日、脳出血により死去。没年81歳。

1905年
【発砲事件】【社会事件】「血の日曜日事件」

1905年1月22日、ロシア・サンクトペテルブルクで労働者のデモ隊に政府当局の軍隊が発砲、ロシア革命のきっかけとなった事件。デモはロシア正教会司祭ガポン神父が計画し労働者の権利や日露戦争中止などを訴えるものでおよそ10万5,000人が参加していた。政府側は中心街へデモ隊を入れない予定であったが、人数が多く失敗し、進行してきた非武装のデモ隊に発砲することとなった。この発砲によりおよそ1,000人以上が死亡したといわれている。また、ガポンは1906年に社会革命党により暗殺されている。

1922年
【死去】ベネディクトゥス15世(BenedictusPP.XV)【ローマ教皇/イタリア】

「第一次世界大戦」直後に第257代ローマ教皇(1914年〜1922年)となった人物。1872年、ジェノヴァ王立大学法学部に入学し、1875年に法学の博士号を取得。1878年、バチカンの外交官になるため教皇教会アカデミーに入所。1883年、枢機卿マリアノ・ランポッラの秘書としてスペインへ。1887年、ローマ教皇庁国務長官に就任し帰国。1907年にイタリア・ボローニャの大司教へ就任。1914年、枢機卿となり同時期にローマ教皇へ。同年「第一次世界大戦」が勃発、バチカンの不偏中立を宣言し外交開始した。1922年1月22日、肺炎により死去。没年67歳。

1959年
【交通事故死】【夭逝】マイク・ホーソーン(John Michael “Mike” Hawthorn)【レーシングドライバー/イギリス】

イギリス人初のF1ワールドチャンピオンとなった人物。1952年にF1デビューし、翌年からフェラーリワークスチームの一員としてレースに参戦し初優勝。これがイギリス人としての初優勝であり、また当時の最年少優勝記録となった。1955年ヴァンウォールへ移籍、同年「ル・マン24時間レース」で優勝。1957年フェラーリに復帰、翌年チャンピオンとなるも引退を表明。引退から3カ月後の1959年1月22日、交通事故により死去。没年29歳。

1968年
【死去】デューク・カハナモク(Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku)【水泳競技選手/アメリカ合衆国】

20世紀初頭に活躍した先住ハワイ人の水泳選手でオリンピック金メダリスト、また競技としてのサーフィン普及に大きな貢献を果たした人物。1911年にアマチュア水泳競技会に参加、自由形220・100・50ヤードで当時の世界記録を更新。1912年、オリンピック代表に選出され予選会の200メートル自由形で当時の世界記録を更新。同年参加した「ストックホルムオリンピック」で100メートル自由形で金メダル獲得。1920年のアントワープオリンピック」では100メートル自由形で2連覇、800メートルリレーで金メダル獲得。1924年に参加した「パリオリンピック」では100メートル自由形銀メダルを獲得。引退後はハワイで水泳とサーフィンの振興を行ない、1990年にその功績が讃えられオアフ島・ワイキキ・ビーチに銅像が設置されることとなった。1968年1月22日、心筋梗塞により死去。没年77歳。

1973年
【死去】リンドン・B・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson)【軍人・政治家/アメリカ合衆国】

「ケネディ大統領暗殺事件」後に第36代アメリカ合衆国大統領(1963年〜1969年)となった人物。1931年、下院議員リチャード・ケルバーグの立法秘書官となり、1935年にテキサス州青年局長に就任。1937年、テキサス州下院議員選挙に出馬し当選。当選後、フランクリン・ルーズベルトにより海軍軍事委員会の委員に選出される。「第二次世界大戦」が起こると海軍少佐として従軍。1948年、上院議員選挙に当選し1953年に少数党院内総務に選出。翌年、上院議員に再選し多数党院内総務に選出。1961年、第37代副大統領に就任、その後、1963年にケネディ大統領が暗殺され大統領へ。就任後、ケネディから引き継いだ「ベトナム戦争」への軍事介入を拡大。アメリカ国内での批判が高まり、1968年のテレビ演説で北ベトナムへの爆撃を部分的に中止、大統領選挙への不出馬を表明、翌年に政界引退を発表。晩年はテキサス州ジョンソンシティーの農場で過ごし「ベトナム戦争」終結を見ることなく1973年1月22日、心筋梗塞により死去。没年64歳。

1973年
【社会事件】「ロー対ウェイド事件」

当時妊娠中の未婚女性ノーマ・マコービーと中絶手術を行なった医師などが原告となり、妊娠中絶を規制するテキサス州法は違憲であるとして1970年に同州地方検事ヘンリー・ウェイドを訴えた事件。1973年1月22日、米最高裁は同州の中絶法を違憲とする判決を下した。ちなみに、ローの名は原告の名を公開しない時に用いられるジェーン・ローという仮名からきている。

1976年
【死刑】大久保清【牛乳店等・犯罪者】画家や小説家などの芸術家を偽装し若い女性ばかりを強姦、殺人していた昭和を代表する連続殺人犯。ロシア系の血を引く容貌と言葉巧みな話術で次々と犯行を重ねた。1971年だけで最低8人の犠牲者が続出、群馬県警に逮捕された。獄中から手記『訣別の章』を出版した。1973年2月22日に前橋地裁で死刑の判決が下り、1976年1月22日に東京拘置所で死刑執行。没年41歳。
1979年
【暗殺】アリー・ハサン・サラーマ(Ali Hassan Salameh)【テロリスト/パレスチナ】

“赤い王子”と称されたミュンヘンオリンピック事件の中心人物でパレスチナ自治政府親衛隊フォース17の創設者。パレスチナの裕福な家に生まれ、教育や軍事教練を受ける。1972年にパレスチナ過激派組織「黒い九月」の起こしたミュンヘンオリンピック事件に参加した後、フォース17を創設。その後、イスラエル諜報特務庁に追及され、1979年1月22日にベイルートで暗殺された。推定没年齢39歳。

1987年
【自殺】バド・ドワイヤー(Robert Budd Dwyer)【政治家/アメリカ合衆国】

ペンシルベニア州上院議員であり、ペンシルベニア州の第30代財務官を務めた人物。1987年1月22日、収賄罪の有罪判決に抗議するために記者会見を開き、その場で拳銃を口に突っ込み自殺を遂げた。没年47歳。その模様がテレビ中継されたことで瞬く間に世界的な有名人となった。

1993年
【死去】安部公房【小説家】

小説『壁 – S・カルマ氏の犯罪』で1951年に芥川賞を受賞、その他代表作『砂の女』『他人の顔』等の前衛的な作品群で世界にも知られる昭和の日本を代表する小説家。1973年には自身の劇団「安部公房スタジオ」を主宰し、井川比佐志、田中邦衛、仲代達矢らの俳優と演劇活動をともにした。1992年12月25日深夜に執筆中に脳溢血で倒れ、そのまま翌年1月22日に急性心不全で死亡。没年68歳。倒れたのが愛人の山口果林宅であったことが話題となったが、山口は2013年に告白手記『安部公房とわたし』を出版。20年にわたる愛人関係と安部の前立腺ガンでの闘病を公表し、議論を呼んだ。

2008年
【薬物中毒死】ヒース・レジャー(Heath Andrew Ledger)【俳優/オーストラリア】

2005年の『ブロークバック・マウンテン』での演技が絶賛され、26歳でアカデミー主演男優賞にノミネートされたオーストラリア出身の気鋭演技派俳優に。将来を嘱望された2008年1月22日に睡眠薬等の併用による急性薬物中毒によりマンハッタンの自宅で急死。長年の不眠症に悩まされて常用していた薬での悲劇となった。没年28歳。死後公開された『ダークナイト』の鬼気迫る演技でアカデミー助演男優賞他多くの映画賞を獲得した。

2018年
【死去】片平晋作【プロ野球選手・指導者・解説者】

東京農業大学卒業後の1971年にドラフト4位で南海ホークスに入団。2年目から同チームの主力となり、王貞治を模した一本足打法で左の長距離砲として活躍。1982年に2対2のトレード(山下律夫、山村善則と片平、黒田正宏)で西武ライオンズに移籍すると、チームの2年連続日本一に一塁手のレギュラーとして貢献した。1987年からは大洋ホエールズに広瀬新太郎との交換トレードで永射保と移籍。一塁手、そして晩年は代打の切り札としてチームに貢献した。1989年は打撃コーチ兼任でその年をもって引退。40歳まで現役を続けた息の長い選手であった。1982年からは西武ライオンズの一軍打撃コーチに就任し、その後も二軍打撃コーチ、二軍監督、編成部長を歴任。2010年からは野球解説者として活動する傍ら、2013年には日本女子プロ野球機構のイースト・アストライア初代監督に就任。「ティアラカップ」でチームを優勝に導き、1年で退任した。2018年1月22日に膵臓ガンで68歳没。