『「叫び」と1933年のムンク』

1944年1月23日は、ノルウェーが産んだ異能の画家・エドヴァルド・ムンクが死亡した日である。
真っ赤な空の元で顔面蒼白な人物が描かれた代表作『叫び』に象徴される「Frieze of Life(生命のフリーズ)をテーマにした連作で知られているムンク。
そのテーマを「A Poem about Life, Love and Death(人生と愛と死)」であると定義し、人間が生きていく上での不安と狂気を単純な構成の絵画で描ききったという、極めてオリジナルな作家である。
人間としてのムンクも決して平坦な人生ではなく、ベルリンでの最初の個展が新聞からの批判によって1週間で打ち切りになったこと、交際していた女性の自殺未遂の際に左手中指をピストルで撃ち抜かれる等、その節目ごとに暗い影に覆われている。
人生で最高の創作をしていたと思われる1900年前後の“Frieze of Life”の時期も、実弟の死、妹の精神分裂病発症等と過ごした時期であった。
そして、既に国際的な評価を獲得していた1902年頃から、その栄光に反比例するように自身も精神を病んでゆき、1908年10月にアルコール依存症の治療のために精神病院に入院することとなった。
やがて治療を終えると精神は安定したが、以降の作品に対する評価は精神を病む以前のものとは並ぶことはなかったという。
最晩年の1940年、ナチスドイツがノルウェーに侵攻してくるとムンクは立て籠もった。
そして1943年の12月12日に80歳の誕生日を祝った1週間後、ドイツ軍に抵抗するノルウェー人民の爆弾で自宅の窓ガラスが吹き飛ばされ、その夜の寒気にで発症した気管支炎で、翌年1月23日に死亡したのだった。
生きてゆくことの不条理を、ムンクはその作品だけでなく、その人生、その死で示しているようだ。

(画像はWikipedia Edvard Munchより使用。Public Domain)

1月23日の不幸

1556年
【自然災害】「華県地震」 明の陝西省で推定マグニチュード8.0の地震が発生。「明実録」によるとその死者数は報告されたものだけで83万人とされ、歴史上最大の被害を出した地震とされている。
1805年
【自殺】クロード・シャップ(Claude Chappe)【発明家/フランス】

18世紀に腕木通信機を発明したフランスの発明家。1783年に神学校を卒業後し聖職者へ。その間も物理学に興味を持ちパリ物理学の学会員に入会。「フランス革命」後は聖職者の身分を捨てフランス・ブリュロンへ帰郷。1791年に通信機の公開実験を行ない実験に成功。1793年、時計職人アブラアム=ルイ・ブレゲの協力の元、腕木通信機を発明。同年、公開実験を行ない成功し、パリとリール間の通信網の整備が開始されることに。1804年、発明の盗用を中傷されはじめ、翌1805年1月23日、鬱病を発症し飛び降り自殺。没年41歳。

1888年
【死去】ギュスターヴ・ドレ(Paul Gustave Doré)【画家/フランス】

19世紀フランスで活躍した画家。幼い頃から画家としての才能を発揮し、1847年から画家として活動を開始。1854年、フランソワ・ラブレー全集の挿絵を担当。以降、ダンテ・アリギエーリ、オノレ・ド・バルザックなどの書籍の挿絵、風刺画『神聖ロシア帝国の歴史』(1850年代)、絵画『地獄第9圏のダンテとウェルギリウス』(1861年)など幅広いジャンルで1万以上の作品を残した。1883年1月23日に心筋梗塞で死去。没年51歳。

1890年
【死去】新島襄【教育者・宗教家】

幕末から明治にかけて活躍した教育者および宗教家であり、同志社大学創設者として知られる人物。幕府の軍艦操練所へ入所中に聖書と出会い、渡米を決意。1864年、司祭ニコライ・カサートキンなどの協力を得てアメリカへ密航。渡米後、大学へ通い日本人初の学士へ。1872年、岩倉使節団と会い通訳として参加し報告書『理事功程』を編集。1875年に宣教師として帰国し、同年に官許同志社英学校を創設しその初代社長へ就任。1877年に同志社女学校、1878年に安中教会(現・日本基督教団)を設立。1886年、京都看病婦学校を設立。晩年は同志社大学設立のため尽力し、1888年に「同志社大学設立の旨意」を添削。1890年1月23日、急性腹膜炎により死去。没年46歳。

1902年
【山岳事故】「八甲田雪中行軍遭難事件」青森県八甲田山山中で行なわれた雪中行軍にて発生した近代の登山史において世界最大級ともいえる山岳遭難事故。1902年1月23日から2月1日頃にかけて、訓練に参加した日本陸軍第8師団歩兵第5連隊210名のうち199名が死亡した。日本の冬季に行なわれた軍事訓練で最も多くの死傷者を出した事故であり、新田次郎著『八甲田山死の彷徨』やその映画化作品『八甲田山』等で広く知られるところになった。
1939年
【怪死】【自殺】【夭折】マティアス・シンデラー(Matthias Sindelar)【サッカー選手/オーストリア】

1930年代前半にヨーロッパ最強といわれたオーストラリア代表”ヴンダーチーム(ドイツ語で「Wonder Team」の意)”の中心的選手であり、オーストリアサッカー史上最高ともいわれる伝説的なフォワード。選手としての全盛期であった1938年のワールドカップフランス大会参加直前に祖国がナチスドイツに併合されたために代表チームは強制的な解散となったが、他の代表選手とは異なり、ドイツ代表には怪我等を理由に最後まで加わらなかった。それどころか1938年4月のドイツ代表対旧オーストリア代表戦に旧オーストラリア代表のキャプテンとして出場し、負けるように指示されていたその試合で自ら得点を挙げ2ー0で勝利している。翌年の1939年1月23日に恋人のカミラ・カスタノーラとともに一酸化炭素中毒で死亡しているところを発見されたが、自殺説や暗殺説も囁かれている。没年35歳。

1944年
【死去】エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)【画家/ノルウェー】

代表作『叫び』で知られているノルウェーを代表する世界的画家。 若くして招待されたベルリンでの最初の個展が新聞からの批判によって1週間で打ち切りになったことや私生活での苦難、アルコール依存症等を乗り越え世界的な名声を確立した。ナチスドイツがノルウェーに侵攻中の1943年12月20日頃、ドイツ軍に抵抗するノルウェー人民の爆弾で自宅の窓ガラスが吹き飛ばされ、その夜の寒気にで発症した気管支炎で、翌年1月23日に死亡した。没年80歳。

1945年
【処刑】ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ(Helmuth James Graf von Moltke)【法律家・運動家/ドイツ】

反ナチス組織「Kreisau Circle(クライザウ・サークル)」の中心的人物として知られるドイツの法律家および運動家。大学で法学と政治学を学び、1928年に教員をしながら青年運動などに参加。1934年、法曹の試験に合格するもナチ党への入党を拒否したため弁護士に。以後、ナチ党に追われ亡命したドイツ人やユダヤ人などの人権保護の活動を開始。「第二次世界大戦」が勃発するとドイツ国防軍防諜部へ勤務。1940年「Kreisau Circle」を設立し、反ナチス運動を続けるも1944年1月にゲシュタポにより逮捕される。1945年1月に死刑判決を受け、同月23日にベルリン・プレッツェンゼー刑務所で処刑された。没年37歳。

1989年
【死去】サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)【画家/スペイン】

大きくはねたカイゼル髭と見開いた目のポートレートで知られるシュルレアリスムの代表的作家。自らを天才と自称し、”Paranoiac Critic(偏執狂的批判的方法)”と呼ぶ手法で独特の観念的な風景画を描いた。また詩人ポール・エリュアールの妻であったガラ・エリュアールを自らの妻にしてからは彼女をモデルにした作品も残したが、1982年にガラが亡くなると自殺未遂を起こしたが、やがて創作を止め彼女のために買ったプホル城に隠居した。1980年に右手をパーキンソン病で痛め、1984年に寝室の火事でひどい火傷を負い(自殺未遂の可能性も)、1988年以降はペースメーカーを使用していたが、1989年1月23日に心不全で死亡した。没年84歳。

1989年
【夭折】【交通事故死】高橋良明【俳優・歌手】ドラマ『うちの子にかぎって2』で人気を博し1987年の『オヨビでない奴!』で主演として活躍した俳優。同年11月には『天使の反乱』でデビューしたアイドル歌手でもあった。1989年1月5日の夜に無免許でオートバイにて走行中、車道を横断してきた中学生を避けて路上駐車していた車に激突。病院に搬送され9日には意識が回復したが22日に容体が急変、翌日死亡した。没年16歳。死因は頭部打撲による小脳くも膜下出血及び中脳出血と発表された。
2004年
【交通事故死】ヘルムート・ニュートン(Helmut Newton)【写真家/ドイツ】

ドイツ生まれながらユダヤ人迫害を逃れシンガポールでキャリアを開始、その後『PLAYBOY』誌やイギリス版『VOGUE』誌での活躍で世界的な名声を確立した写真家。フェティッシュ、SMのエッセンスと都市生活とをミックスしたスタイリッシュな世界観の作品が特徴で、1961年にパリに拠点を移してからは『VOGUE』誌を始めとしたフランスの雑誌で長期にわたり活躍した。晩年移り住んだロサンゼルスにて、常宿として使用していたシャトーマーモンとホテルを出たところで自動車の操作を失い壁に激突死した。没年83歳。死後その遺灰はベルリンで埋められた。

2011年
【死去】喜味こいし【漫才師】

兄の夢路いとしと漫才コンビ「夢路いとし・喜味こいし」を結成し、そのツッコミ役として長きにわたり活躍した上方漫才の巨人。2003年9月25日にいとしが死去すると「これでいとこい漫才は終焉です」と漫才引退を発表、その後はタレント、コメンテーターとして活躍した。1977年に膀胱ガンで人工膀胱保有者(オストメイト)となり、2010年には肺ガンも発見され、翌年1月23日に肺の小細胞ガンで死去した。没年83歳。