『事件当時17歳のブレンダ・アン・スペンサーのマグショット』

1979年1月29日は、カリフォルニア州サンディエゴにあるクリーブランド小学校で当時17歳の女子高生、ブレンダ・アン・スペンサーがライフル銃で乱射した事件「クリーブランド小学校乱射事件」が発生した日である。
同校の道1本を隔てた場所に住んでいたブレンダは、クリスマスに父親に買ってもらったばかりのライフル銃で同校の校長と用務員を射殺、その他にも8名の生徒と1人の警察官を負傷させた。
さらに、逮捕後に彼女が語った「I don't like Monday」という発言が社会的にさらなる衝撃を与えた。この悲劇は何一つ不自由のない裕福な家庭に育った少女による、無気力な殺人事件であり、誰にでもやってくる「月曜日の気怠さ」で起きたものであったのだ。
早くに離婚をして父と二人で暮らしていたブレンダ。
その後の供述では父親から性的暴行も受けていたことも明らかになった。
その真偽はともかく、ブレンダの“何一つ不自由ない生活”が、かなりの部分で欠落していたことは事実であろう。
なにしろ、ブレンダは父親からその銃をプレゼントされた時、「自殺しろ」と言われているような感覚に陥ったというのだ。
そして彼女には25年以上の懲役が言い渡されたが、彼女は事件から38年が経った今もカリフォルニア女子刑務所から出所していない。
7日ごとにくる月曜日に、彼女は今、何を思うのだろうか。

(写真はWikipedia Cleveland Elementary School shootingより使用。Public Domain)

1月29日の不幸

1933年
【自殺】サラ・ティーズデール(Sara Teasdale)【詩人/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの詩人。1904年、ミズーリ州セントルイス在住の若い女性作家で結成したグループ「The Potters」の一員となり、1907年に地元の新聞社から詩集『Sonnets to Duse』『Other Poems』を出版。1918年、詩集『Love Songs』でピューリッツァー賞を受賞。その後も『flame and Shadow』(1920年)、『Dark of the Moon』(1926年)といった詩集を発表。1929年に夫と離婚、以前から交友関係にあった詩人ヴェーチェル・リンジーと暮らし、翌年『tars To-night 』を発表。1931年、リンジーが自殺、その後、1933年1月29日に睡眠薬を過剰摂取し自殺。遺作となった詩集『Strange Victory』は同年の死後刊行された。

1962年
【死去】フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler)【ヴァイオリニスト・作曲家/オーストリア・アメリカ合衆国】

20世紀を代表するオーストリア・アメリカのヴァイオリニストおよび作曲家のひとり。幼少の頃からヴァイオリニストとしての才能を開花させ、7歳の時にウィーン高等音楽院へ特例で入学。作曲家アントン・ブルックナーやヴァイオリニストヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世などに学び、1885年10歳で同学院を主席で卒業。その後、パリ高等音楽院に入学し12歳で主席で卒業。1888年、渡米しニューヨークのスタインウェイホールで演奏会を開催。帰国後は高等学校へ進学し、1895年にオーストリア帝国陸軍へ入隊。その後は音楽界へ復帰し、1899年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したことで1902年にロンドンでデビュー。1905年、3部作『Alt-Wiener Tanzweisen』(『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』)を発表。1914年「第一次世界大戦」に参加、重症を負い除隊となり再び音楽活動を再開し、ロシアのピアニスト・セルゲイ・ラフマニノフと『ヴァイオリンソナタ第3番』などを録音。ナチス政権が台頭するとドイツへの残留を断りパリへ移住。1939年に渡米、その後アメリカ国籍を取り永住。1962年1月29日、心臓疾患のため死去。没年86歳。

1963年
【死去】ロバート・フロスト(Robert Lee Frost)【詩人・教育者/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカで活躍した詩人でピューリッツァー賞受賞者。1894年、初の詩である『My Butterfly.An Elegy』を新聞社ニューヨーク・インディペンデントに掲載。1912年に渡英し、初の詩集『A Boy’s Will』を出版。1915年、アメリカへ戻り質筆を行なう傍ら大学教授に従事。その後、1924年『New Hampshire』、1931年『Collected Poems』、1937年『A Further Range』、1943年『A Witness Tree』の4作品でピューリッツァー賞を獲得。その後も活動を続けながら1963年1月29日、前立腺手術の合併症により死去。没年88歳。

1964年
【薬物過剰摂取】アラン・ラッド(Alan Ladd)【俳優/アメリカ合衆国】

1953年の西部劇映画『シェーン』で主役を演じたことで知られるスター俳優。1940〜1950年代のハリウッドで活躍したが、以降は人気が凋落し鬱病を発症。1962年11月に拳銃自殺を図るが未遂に終わる。1964年1月に膝を負傷しパームスプリングの自宅で療養中に死亡。朝10時頃にベッドで寝ているところを確認した執事が午後3時半に死んでいると確認した。睡眠薬とアルコールの過剰摂取が原因とされた。没年50歳。

1979年
【無差別殺人】【スクールシューティング】「クリーブランド小学校乱射事件」

1979年1月29日、カリフォルニア州サンディエゴにあるクリーブランド小学校で当時17歳の女子高生、ブレンダ・アン・スペンサーがライフル銃を乱射。同校の道1本を隔てた場所に住んでいたブレンダは、クリスマスに父親に買ってもらったばかりのライフル銃で同校の校長と用務員を射殺、8人の生徒と1人の警察官を負傷させた。その後の公判により、25年以上の終身刑が確定。その犯行時、アルコールとドラッグ(PCP)で正気ではなかったことも判明している。また、逮捕後に語った「I don’t like Monday」という発言が社会的にさらなる衝撃を与えた。

1991年
【死去】井上靖【小説家】

学生時代から詩作活動を開始し、毎日新聞大阪本社勤務後作家活動に専念。学芸部1950年に『闘牛』で第22回芥川賞を受賞した小説家。映画化された『敦煌』『おろしや国酔夢譚』、ドラマ化された『風林火山』等、壮大な時代小説の書き手として絶大な人気を博した。急性肺炎で83歳没。葬儀委員長は同世代で共に文学界を牽引した司馬遼太郎が務めた。

1992年
【死去】ウィリー・ディクスン(Willie Dixon)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

「第二次世界対戦」後に活躍したアメリカのブルースミュージシャンで近代シカゴ・ブルースに影響を与えた人物として知られる。プロ・ボクサーを経て、1939年にブルースピアニストのレオナルド・キャストンとバンド「the Five Breezes」を結成。「第二次世界大戦」が勃発し、徴兵を拒否したため投獄されることに。戦後、再びバンド「the Big Three Trio」を結成しベーシストとして活動を開始。1951年に同バンドが解散すると、チェス・レコードでプロデューサーやソングライターに従事し、作詞・作曲を手がけた『Hoochie Coochie Man』(1954年)がマディ・ウォーターズの歌でヒット。以後プロデューサーやソングライターとして活躍し、1980年にブルースの殿堂入りへ。1984年にブルース・ヘヴン・ファウンデーションを設立。1989年にアルバム『Hidden Charms』がグラミー賞を獲得。1992年1月29日、心不全のため死去。没年76歳。

2004年
【交通事故死】The Water Of Life(清水和彦)【シンガーソングライター】

1997年10月1日ぶシングル『うそ』でデビューしたミュージシャン。代表作に『風のすみか』等。後に小林宏至との「HAPPY DRUG STORE」として清水和彦名義で活動も。晩年は椛田早紀のプロデュースも手がけた。滋賀県米原町を自ら運転中、前方追い越しのために対向車線に出たところ大型トラックに正面衝突し即死。没年32歳。仕事の帰りに滋賀県長浜市の実家へ向かう途中であった。

2006年
【死去】ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)【現代美術家/アメリカ合衆国】

幼少期から京城(現ソウル)、香港、日本、ドイツを転々とし、1964年にアメリカで活動を開始。ビデオ・アートのパイオニアとしてパフォーマンスや映像作品で世界的に活躍した。2006年1月29日早朝6時頃、アメリカ・フロリダ州マイアミの別荘にて不整脈で死去。没年73歳。葬儀では、パイクの初期のパフォーマンス作品『ジョン・ケージへのオマージュ』でケージのネクタイをハサミで切ったことから、参列者たちは自らのネクタイを切り、棺に入れた。

2016年
【死去】ジャック・リヴェット(Jacques Rivette)【映画監督・批評家/フランス】

ヌーヴェルヴァーグ期にエリック・ロメールとともに機関誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』創刊し、その後『カイエ・デュ・シネマ』の第3代編集長を務めた後に映画監督に転身。ヌーヴェルヴァーグの代表的映画監督として活躍した。1991年にオノレ・ド・バルザックの『知られざる傑作』を元にした映画『美しき諍い女』で第44回カンヌ国際映画祭の審査員グランプリを受賞。80代まで現役で活躍しアルツハイマーの合併症で87歳没。