『事件当時17歳のブレンダ・アン・スペンサーのマグショット』

1979年1月29日は、カリフォルニア州サンディエゴにあるクリーブランド小学校で当時17歳の女子高生、ブレンダ・アン・スペンサーがライフル銃で乱射した事件「クリーブランド小学校乱射事件」が発生した日である。
同校の道1本を隔てた場所に住んでいたブレンダは、クリスマスに父親に買ってもらったばかりのライフル銃で同校の校長と用務員を射殺、その他にも8名の生徒と1人の警察官を負傷させた。
さらに、逮捕後に彼女が語った「I don't like Mondays(月曜日が嫌い)」という発言が社会的にさらなる衝撃を与えた。この悲劇は何一つ不自由のない裕福な家庭に育った少女による、無気力な殺人事件であり、誰にでもやってくる「月曜日の気怠さ」で起きたものであったのだ。
早くに離婚をして父と二人で暮らしていたブレンダ。
その後の供述では父親から性的暴行も受けていたことも明らかになった。
その真偽はともかく、ブレンダの“何一つ不自由ない生活”が、かなりの部分で欠落していたことは事実であろう。
なにしろ、ブレンダは父親からその銃をプレゼントされた時、「自殺しろ」と言われているような感覚に陥ったというのだ。
そして彼女には25年以上の懲役が言い渡されたが、彼女は事件から38年が経った今もカリフォルニア女子刑務所から出所していない。
7日ごとにくる月曜日に、彼女は今、何を思うのだろうか。

(写真はWikipedia Cleveland Elementary School shootingより使用。Public Domain)

1月29日の不幸

1820年
【死去】ジョージ3世(George III)【王族/イギリス】

18世紀から19世紀イギリスのハノーヴァー家第3代目イギリス国王(1760年〜1820年)として知られる人物。国王ジョージ2世の孫でハノーヴァー家の王族フレデリック・ルイスの息子として生まれ、1751年にフレデリック・ルイスが急死すると王位およびエディンバラ公位を相続しプリンス・オブ・ウェールズの称号を得る。1760年にジョージ2世が死去すると国王に即位。即位後は「七年戦争」でフランスに勝利し北米とインドの支配に成功。「アメリカ独立戦争」ではアメリカに敗北し同国の植民地の大部分を失うことに。1793年から「フランス革命戦争」「ナポレオン戦争」が勃発。晩年は精神疾患を患い、フランスと交戦中の1810年頃から病状が悪化。ウィンザー城に幽閉されたまま1820年1月29日に死去。没年81歳。

1933年
【自殺】【薬物過剰摂取】サラ・ティーズデール(Sara Teasdale)【詩人/アメリカ合衆国】

19世紀から20世紀かけて活躍したアメリカの詩人。1907年に新聞『Reedy’s Mirror』に詩が掲載され、同年に初の詩集『Duse to Duse』を発表。1911年に発表した『Helen of Troy and Other Poems』が評価され詩人として注目されることに。1915年に『Rivers to the Sea』を発表しベストセラーとなる。1918年に『Love Songs』でピューリッツァー賞を受賞。晩年まで詩人として活動するも1933年1月29日に睡眠薬を過剰摂取し自殺。没年48歳。死後に遺作『Strange Victory』が発表された。

1933年
【自殺】サラ・ティーズデール(Sara Teasdale)【詩人/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカの詩人。1904年、ミズーリ州セントルイス在住の若い女性作家で結成したグループ「The Potters」の一員となり、1907年に地元の新聞社から詩集『Sonnets to Duse』『Other Poems』を出版。1918年、詩集『Love Songs』でピューリッツァー賞を受賞。その後も『flame and Shadow』(1920年)、『Dark of the Moon』(1926年)といった詩集を発表。1929年に夫と離婚、以前から交友関係にあった詩人ヴェーチェル・リンジーと暮らし、翌年『tars To-night 』を発表。1931年、リンジーが自殺、その後、1933年1月29日に睡眠薬を過剰摂取し自殺。遺作となった詩集『Strange Victory』は同年の死後刊行された。

1934年
【死去】フリッツ・ハーバー(Fritz Haber)【化学者/ドイツ】

“化学兵器の父”と呼ばれた19世紀末から20世紀に活躍したドイツの物理化学者および電気化学者で「ハーバー・ボッシュ法」の発見で知られる人物。大学在学中に化学者ロベルト・ブンゼン、カール・リーバーマン、ヴィルヘルム・オストヴァルトらの元で学び、1894年にカールスルーエ大学の研究室の助手の職を得る。1896年に論文「炭化水素の分解の実験的研究」で注目を集め、同年に私講師となる。1898年に教科書『理論的基盤による技術的電気化学概論』を刊行し助教授に就任。1904年にアンモニアの合成法開発に着手、1906年にカールスルーエ大学教授に就任。1912年にアンモニアの合成法が実用化され「ハーバー・ボッシュ法」として知られることに。同年にカイザー・ヴィルヘルム物理化学・電気化学研究所所長に就任。「第一次世界大戦」中は毒ガスの開発・作戦に携わり国際的な非難を浴びるもその後も研究を継続。終戦後の1918年に「ハーバー・ボッシュ法」でノーベル化学賞を受賞。晩年は毒ガス研究の評価から職を得られないまま、1934年1月29日に冠状動脈硬化症で死去。没年65歳。

1940年
【死去】ネド・ナジ(Nedo Nadi)【フェンシング選手/イタリア】

20世紀イタリアのフェンシング選手で「ストックホルムオリンピック」「アントワープオリンピック」の男子フェンシング金メダリストとして知られる人物。幼い頃からフェンシングを習い、1912年に「ストックホルムオリンピック」男子フェンシングのフルーレ個人で史上最年少の18歳で金メダルを獲得。1920年の「アントワープオリンピック」では男子フェンシングのフルーレ個人・団体、エペ団体、サーブル個人・団体で計5個の金メダルを獲得。オリンピック1大会でフルーレ、エペ、サーブル3種目で金メダルを獲得した唯一の選手となった。晩年はコーチやイタリア・フェンシング連盟会長を務め、1940年1月29日に脳卒中で死去。没年45歳。

1940年
【列車事故】【火災事故】「西成線列車脱線火災事故」

1940年1月29日に大阪府大阪市此花区の鉄道省西成線(現・西日本旅客鉄道桜島線)安治川口駅構内で駅員の分岐器切り替えの操作ミスにより列車が脱線・転覆。その後燃料のガソリンに引火し火災が発生し189人が死亡、69人が負傷した。

1941年
【死去】イオアニス・メタクサス(Ioannis Metaxas)【軍人・政治家/ギリシャ】

20世紀ギリシャの軍人および政治家でギリシャ首相(1936年〜1941年)となった人物。職業軍人として1897年に「希土戦争」へ従軍し1913年に将官へ昇進。1916年に政治家エレフテリオス・ヴェニゼロスが国王へ反乱を起こすと国王コンスタンティノス1世を支持しとともに亡命。1922年に同国の君主制が撤廃されると政治家となり自由言論党を結党。1935年に王政復古が起こりコンスタンティノス1世の息子ゲオルギオス2世が即位、同年にメタクサスが暫定的な首相に任命されることに。首相就任後は野党を非合法化しおよそ1万5千人を投獄・国外追放にするなど独裁政権を行なう。1939年に「第二次世界大戦」が勃発、イタリアと対戦中の1941年1月29日に咽頭ガンにより死去。没年69歳。

1962年
【死去】フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler)【ヴァイオリニスト・作曲家/オーストリア・アメリカ合衆国】

20世紀を代表するオーストリア・アメリカのヴァイオリニストおよび作曲家のひとり。幼少の頃からヴァイオリニストとしての才能を開花させ、7歳の時にウィーン高等音楽院へ特例で入学。作曲家アントン・ブルックナーやヴァイオリニストヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世などに学び、1885年10歳で同学院を主席で卒業。その後、パリ高等音楽院に入学し12歳で主席で卒業。1888年、渡米しニューヨークのスタインウェイホールで演奏会を開催。帰国後は高等学校へ進学し、1895年にオーストリア帝国陸軍へ入隊。その後は音楽界へ復帰し、1899年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演したことで1902年にロンドンでデビュー。1905年、3部作『Alt-Wiener Tanzweisen』(『愛の喜び』『愛の悲しみ』『美しきロスマリン』)を発表。1914年「第一次世界大戦」に参加、重症を負い除隊となり再び音楽活動を再開し、ロシアのピアニスト・セルゲイ・ラフマニノフと『ヴァイオリンソナタ第3番』などを録音。ナチス政権が台頭するとドイツへの残留を断りパリへ移住。1939年に渡米、その後アメリカ国籍を取り永住。1962年1月29日、心臓疾患のため死去。没年86歳。

1963年
【死去】ロバート・フロスト(Robert Lee Frost)【詩人・教育者/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカで活躍した詩人でピューリッツァー賞受賞者。1894年、初の詩である『My Butterfly.An Elegy』を新聞社ニューヨーク・インディペンデントに掲載。1912年に渡英し、初の詩集『A Boy’s Will』を出版。1915年、アメリカへ戻り質筆を行なう傍ら大学教授に従事。その後、1924年『New Hampshire』、1931年『Collected Poems』、1937年『A Further Range』、1943年『A Witness Tree』の4作品でピューリッツァー賞を獲得。その後も活動を続けながら1963年1月29日、前立腺手術の合併症により死去。没年88歳。

1964年
【薬物過剰摂取】アラン・ラッド(Alan Ladd)【俳優/アメリカ合衆国】

1953年の西部劇映画『シェーン』で主役を演じたことで知られるスター俳優。1940〜1950年代のハリウッドで活躍したが、以降は人気が凋落し鬱病を発症。1962年11月に拳銃自殺を図るが未遂に終わる。1964年1月に膝を負傷しパームスプリングの自宅で療養中に死亡。朝10時頃にベッドで寝ているところを確認した執事が午後3時半に死んでいると確認した。睡眠薬とアルコールの過剰摂取が原因とされた。没年50歳。

1968年
【死去】藤田嗣治(レオナルド・フジタ)【画家】

20世紀パリで活躍したエコール・ド・パリを代表する日本およびフランスの画家。1905年に東京美術学校へ入学し卒業後の1913年に渡仏。パリ・モンパルナスに移住しこの頃画家のアメデオ・モディリアーニ、パブロ・ピカソらと交友。翌年「第一次世界大戦」が勃発、生活苦が続くも1917年頃から作品が売れ個展を開催。個展が成功したことで注目されパリで人気画家へ。1922年に『寝室の裸婦キキ』を発表しサロン・ドートンヌで評判となる。1925年にフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章が授与される。1931年に南アメリカで個展を開催し成功を収める。1938年に従軍画家として「日中戦争」に参加。その後パリへ戻るも「第二次世界大戦」が勃発し帰国。大戦中は陸軍美術協会理事長に就任し『アッツ島玉砕』など戦争画を制作。終戦後の1949年にパリへ戻り1955年にフランス国籍を取得。1957年にレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章授与。1959年にカトリックの洗礼を受け“レオナール・フジタ”となる。晩年も画家として活動し1968年1月29日にガンで死去。没年81歳。

1969年
【死去】アレン・ウェルシュ・ダレス(Allen Welsh Dulles)【弁護士・政治家・外交官/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカの弁護士および政治家・外交官で中央情報局(CIA)長官を務めたことで知られる人物。1916年に国務省へ入省し「第一次世界大戦」中は諜報活動を行なう。1918年にパリ講和会議でアメリカ代表団の一員として参加。1920年にトルコへ赴任し国務省中近東課長に就任。帰国後の1926年に北京大使館勤務を命じられたことをきっかけに国務省を退省。その後、国際法律事務所サリヴァン&クロムウェルに所属し国際会議の法律顧問としてアメリカ代表団に同行。1940年にCIAの前身であるOSS(Office of Strategic Services)へ入局。「第二次世界大戦」中は停戦・降伏交渉の「サンライズ作戦」を実施。終戦後は弁護士業へ戻るも1950年にCIA作戦本部長に就任。翌年にCIA副長官、1953年にCIA長官に就任。以後、イランの「モハメッド・モサデグ政権転覆作戦」、グアテマラの「ハコボ・アルベンス・グスマン政権転覆作戦」、国内メディアのコントロールを行なう「モッキンバード作戦」 を指揮。1961年にキューバへの「ピッグズ湾侵攻計画」によりジョン・F・ケネディからCIA長官を解任されるもCIAの活動へ関わり続けることに。1969年にリチャード・ニクソン政権が発足すると、国家安全保障会議メンバーへ就任。同年1月29日に肺炎で死去。没年75歳。

1979年
【無差別殺人】【スクールシューティング】「クリーブランド小学校乱射事件」

1979年1月29日、カリフォルニア州サンディエゴにあるクリーブランド小学校で当時17歳の女子高生、ブレンダ・アン・スペンサーがライフル銃を乱射。同校の道1本を隔てた場所に住んでいたブレンダは、クリスマスに父親に買ってもらったばかりのライフル銃で同校の校長と用務員を射殺、8人の生徒と1人の警察官を負傷させた。その後の公判により、25年以上の終身刑が確定。その犯行時、アルコールとドラッグ(PCP)で正気ではなかったことも判明している。また、逮捕後に語った「I don’t like Monday」という発言が社会的にさらなる衝撃を与えた。

1991年
【死去】井上靖【小説家】

学生時代から詩作活動を開始し、毎日新聞大阪本社勤務後作家活動に専念。学芸部1950年に『闘牛』で第22回芥川賞を受賞した小説家。映画化された『敦煌』『おろしや国酔夢譚』、ドラマ化された『風林火山』等、壮大な時代小説の書き手として絶大な人気を博した。急性肺炎で83歳没。葬儀委員長は同世代で共に文学界を牽引した司馬遼太郎が務めた。

1992年
【死去】ウィリー・ディクスン(Willie Dixon)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

「第二次世界対戦」後に活躍したアメリカのブルースミュージシャンで近代シカゴ・ブルースに影響を与えた人物として知られる。プロ・ボクサーを経て、1939年にブルースピアニストのレオナルド・キャストンとバンド「the Five Breezes」を結成。「第二次世界大戦」が勃発し、徴兵を拒否したため投獄されることに。戦後、再びバンド「the Big Three Trio」を結成しベーシストとして活動を開始。1951年に同バンドが解散すると、チェス・レコードでプロデューサーやソングライターに従事し、作詞・作曲を手がけた『Hoochie Coochie Man』(1954年)がマディ・ウォーターズの歌でヒット。以後プロデューサーやソングライターとして活躍し、1980年にブルースの殿堂入りへ。1984年にブルース・ヘヴン・ファウンデーションを設立。1989年にアルバム『Hidden Charms』がグラミー賞を獲得。1992年1月29日、心不全のため死去。没年76歳。

2004年
【交通事故死】The Water Of Life(清水和彦)【シンガーソングライター】

1997年10月1日ぶシングル『うそ』でデビューしたミュージシャン。代表作に『風のすみか』等。後に小林宏至との「HAPPY DRUG STORE」として清水和彦名義で活動も。晩年は椛田早紀のプロデュースも手がけた。滋賀県米原町を自ら運転中、前方追い越しのために対向車線に出たところ大型トラックに正面衝突し即死。没年32歳。仕事の帰りに滋賀県長浜市の実家へ向かう途中であった。

2006年
【死去】ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)【現代美術家/アメリカ合衆国】

幼少期から京城(現ソウル)、香港、日本、ドイツを転々とし、1964年にアメリカで活動を開始。ビデオ・アートのパイオニアとしてパフォーマンスや映像作品で世界的に活躍した。2006年1月29日早朝6時頃、アメリカ・フロリダ州マイアミの別荘にて不整脈で死去。没年73歳。葬儀では、パイクの初期のパフォーマンス作品『ジョン・ケージへのオマージュ』でケージのネクタイをハサミで切ったことから、参列者たちは自らのネクタイを切り、棺に入れた。

2016年
【死去】ジャック・リヴェット(Jacques Rivette)【映画監督・批評家/フランス】

ヌーヴェルヴァーグ期にエリック・ロメールとともに機関誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』創刊し、その後『カイエ・デュ・シネマ』の第3代編集長を務めた後に映画監督に転身。ヌーヴェルヴァーグの代表的映画監督として活躍した。1991年にオノレ・ド・バルザックの『知られざる傑作』を元にした映画『美しき諍い女』で第44回カンヌ国際映画祭の審査員グランプリを受賞。80代まで現役で活躍しアルツハイマーの合併症で87歳没。

2019年
【死去】橋本治【小説家・イラストレーター】

昭和から平成にかけて活躍した小説家およびイラストレーター。1968年の東大在学中に制作した東京大学駒場祭のポスター「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピーで注目される。その後、イラストレーターを経て1977年に小説『桃尻娘』を発表し小説現代新人賞佳作を授賞。以後、文筆業に専念し評論家、随筆家として活躍。その他、編み物制作でも話題となり『男の編み物』を刊行。晩年まで作家活動を続け、2019年1月29日に肺炎で死去。没年70歳。

2019年
【死去】ジェームス・イングラム(James Ingram)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】

20世紀に活躍したアメリカのシンガーソングライター。1970年代から活動を始め、レイ・チャールズのバンドのキーボードなどを務める。その後、セッション・ボーカリストとして活動し音楽プロデューサーのクインシー・ジョーンズに見出される。以後、クインシーの曲でパティー・オースティンとデュエットした『Baby Come To Me』で全米1位を記録。1983年にソロデビューし翌年マイケル・マクドナルドとのデュエット『Yah Mo B There』でグラミー賞受賞。1985年にUSAフォー・アフリカに参加。以後も『Somewhere Out There』(1986年)『BETTER WAY』(1987年)『I Don’t Have The Heart』(1990年)といったヒット曲を発表し2019年1月29日に脳腫瘍で死去。没年66歳。