『ラトゥール作「悔い改めるマグダラのマリア」』

1652年1月30日は、バロック期のフランスにおいて独特のキアロスクーロを用いた画風で異彩を放ったフランスの画家、ジョルジュ・ド・ラ・ラトゥールが死亡した日である。
強いコントラストを付けるキアロスクーロで、カラバッジォにたとえられるその画風で知られ、その作品群はカラバッジォに比べて神秘的でより繊細といわれている。
時の権力者であるフランス王ルイ13世の評価も高く、「国王付画家」の称号を得ていたとされている。
そんなラトゥールの代表作は、他の多くの画家も描いたテーマである『悔い改めるマグダラのマリア』で、その生涯にわたり3つのほぼ同じ画角の作品を描いている。
マグダラのマリアは、イエスの死を見守った罪深い女として存在する人物で、その画の中では“アトリビュート(持物。必ずともに描かれるもの)”として頭蓋骨が描かれている。
これは《死の象徴》としてのマグダラのマリアを表わすためともいわれ、彼女はその深く沈んだ闇の中で死を想い、頭骸骨を抱いているのである。
3作の中でもより影の強いこの作品こそ、夜の画家とも称されるラトゥールの真骨頂だろう。
長年忌み嫌われてきた《死》、そして娼婦だっとも言われ悪名を着せられてきた《マグダラのマリア》という暗部に惹かれることもまた、人間の常なのだ。

(写真はWikipedia Georges de La Tourより使用。Public Domain)

1月30日の不幸

1649年
【処刑】チャールズ1世(Charles I)【王族/イングランド】

17世紀イギリスの王(1625年~1649年)で清教徒革命を引き起こすきっかけとなった人物。1616年にプリンス・オブ・ウェールズとなり、1621年にイングランド議会貴族院議員へ選出。1625年、イングランド・スコットランド・アイルランド王チャールズ1世として即位。1628年、スペインへの課税を反対されたため議会を解散し、反対した議員を投獄、以降絶対王政を行なった。その後、清教徒を弾圧し1642年に「清教徒革命」が勃発。1645年、国王軍が敗北し1649年1月30日にホワイトホール宮殿バンケティング・ハウス前で公開処刑された。没年48歳。

1652年
【死去】ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour)【画家/フランス】

バロック期のフランスにおいて強いコントラストを付ける独特のキアロスクーロを用いた画風で異彩を放ったフランスの画家。時の権力者であるフランス王ルイ13世の評価も高く、「国王付画家」の称号を得ていたとされている。代表作に、その生涯にわたり3つのほぼ同じ画角の作品を描いた『悔い改めるマグダラのマリア』等。1652年1月に、リュネビルを伝染病が襲い、15日に妻、22日に実子が死亡し、30日にラトゥール本人も死亡。没年58歳。

1703年
【敵討ち】「赤穂事件」

江戸城松之大廊下で、高家旗本の吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつけたとして切腹に処せられた播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭の敵討ちとして、家臣である大石内蔵助以下旧赤穂藩士47人が吉良邸に討ち入り、翌日吉良を惨殺。

1835年
【暗殺未遂事件】「アメリカ初大統領暗殺未遂事件」

1835年1月30日、アンドリュー・ジャクソン米大統領が国会議事堂を出るとイギリス人の塗装工で失業中であったリチャード・ローレンスにより発砲されたアメリカ初の大統領暗殺未遂事件。しかし、不発に終わりローレンスは捕らえられた後、精神異常者として施設へ収容された。

1889年
【怪事件】【未解決事件】「マイヤーリング事件」オーストリア皇太子のルドルフとその愛人であったマリー・フォン・ヴェッツェラがマイヤーリングの狩猟館のベッドの上で拳銃で撃たれて死んでいるのを発見。当初は寝室には鍵がかけられて2発の銃声が響いたとの警察発表がされたために心中、もしくは無理心中事件として世界に広まったが、事件から94年後の1983年3月11日に63年の亡命からウィーンに帰国したオーストリア最後の皇后ツィタが暗殺だったと暴露。その真相はいまだ明らかになっていない。
1948年
【暗殺】マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)【活動家/インド】

インド独立を率いた”インド独立の父”、第一次大戦直後のインド国民会議に加わると、イギリス製品の不買運動などを主とした不服従運動で世界的な知名度を獲得し、徹底した非暴力の訴えながら、時には懲役刑を科されるほどの過激な活動をみせた。その大きな武器となったのが合計17回、累計140日間、最長で連続21日という断食(ハンガーストライキ)であり、その鮮烈なビジュアルと共に世界中へ彼のメッセージを拡散することとなった。1947年にインドは独立したが、パキスタンとは分離独立となり、その直後からの宗教戦争の最中で、1948年1月30日にニューデリーでヒンドゥー原理主義集団民族義勇団のナートゥーラーム・ゴードセーらによって銃殺された。銃弾3発を胸部に打ち込まれたガンディーの最後の言葉は「おお神よ」であった。

1948年
【死去】オーヴィル・ライト(Orville Wright)【発明家・パイロット/アメリカ合衆国】

1903年に飛行機での有人動力飛行に世界で初めて成功を納めたライト兄弟の弟(ウィルバーの弟で、家系的には四男)であり、飛行機の発明者、パイロット。兄ウィルバーの死から36年後に心臓発作で死去。没年76歳。奇妙なことに、1903年に記念すべき初フライトの写真を撮影したアマチュアカメラマンのジョン・T・ダニエルが翌日に死亡している。

1951年
【死去】フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche)【技術者/オーストリア】

『フォルクスワーゲン・タイプ1』の設計者として知られる20世紀オーストリアの自動車エンジニア。幼い頃から工学に興味を持ち、1894年に電気機器会社ベラ・エッガーで働きながらウィーン工科大学の聴講員に。1898年、元馬車メーカーのヤーコプ・ローナーで自動車開発を開始し、電気自動車『ローナーポルシェ』を考案。1906年、アウストロ・ダイムラー社へ移籍、1909年に『28/30HPマヤ』を設計。1910年から航空エンジンの開発も手がけ、その業績から同社の総支配人へ。1917年、ウィーン工科大学名誉博士号を授与。1923年ダイムラー・モトーレン社の主任設計者および技術部長兼取締役に就任。翌年、メルセデス・ベンツのブランドでレーシングカーの開発を手がける。1929年、シュタイア社の主任設計者に就任、大型車シュタイア・オーストリアを設計。1931年、ポルシェ事務所を設立。1933年ナチス政権下に『フォルクスワーゲン・タイプ1』を設計。1938年にドイツ芸術科学国家賞受賞。「第二次世界大戦」が始まると軍用車両キューベルワーゲンやティーガー戦車といった戦闘車両を設計。戦後は米軍により戦犯として刑務所へ収容され、1947年に釈放へ。1948年にポルシェの名を冠した『ポルシェ・356』の生産を開始。1950年1月30日、脳梗塞により死去。没年75歳。

1957年
【殺人事件】「ジラード事件」

1957年1月30日、群馬県群馬郡相馬村の相馬ヶ原演習場で在日米軍兵士・ウィリアム・S・ジラードが演習地内へ薬莢拾いに立ち入った日本人主婦を射殺。ジラードは日本の法律のもと傷害致死罪で起訴され懲役3年・執行猶予4年の有罪判決となった。

1972年
【民族問題】「血の日曜日事件」1972年1月30日、北アイルランドのロンドンデリーで、デモ行進をしていた非武装のカトリック系市民27名がイギリス陸軍落下傘連隊に銃撃され13人が死亡。事件当時イギリス軍は無罪となったことが世界的な議論を呼び、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、U2らのイギリス系ロック・ミュージシャンがそれぞれ曲にして英政府を批判する行為に。2010年6月15日にデービッド・キャメロン英首相が、イギリス政府として被害者へ初めて謝罪した。
1988年
【解散】「藤子不二雄解散」

国民的人気を誇った漫画家コンビである藤子不二雄が共作関係の解消を発表。藤本弘は藤子・F・不二雄、我孫子素雄は藤子不二雄Ⓐとしてその後の著作を発表した。原因は50歳を超え著作権・遺産問題が出ないようにと言われている。

1993年
【死去】服部良一【作曲家】

大阪フィルハーモニック・オーケストラからコロムビア専属に転身し、淡谷のり子の『別れのブルース』でヒットを飛ばした作曲家。作曲家の服部克久は息子に当たる。終戦直後には『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』等の大ヒットを連発し、戦後を代表するヒットメーカーとなった。1993年1月30日に呼吸不全で85歳没。その死後、国民栄誉賞が授与された(作曲家としては古賀政男に次いで2人目)。

2007年
【死去】シドニィ・シェルダン(Sidney Sheldon)【小説家・劇作家/アメリカ合衆国】

ハリウッドでの脚本家、ブロードウェイでの劇作家時代を経て小説家に転身。『真夜中は別の顔』『ゲームの達人』等の大ヒット作で世界的人気を獲得し、その著書は累計3億部を超える。日本でも”超訳”と銘打ったその著書は爆発的なブームになり、『ゲームの達人』『女医』『血族』等の作品が相次いでドラマ化された。プライベートでは生来の双極性障害であり、17歳の頃には自殺未遂も。2007年1月30日に肺炎の合併症で死亡した。没年89歳。

2015年
【暗殺】後藤健二【ジャーナリスト】

テレビ番組制作会社勤務を経て、1996年に自身の映像通信会社「インデペンデント・プレス」を設立。フリーランスのジャーナリストとして国内外を取材活動するが、次第に中東やアフリカ等の紛争地域にも活動を拡げ、取材先でアル=ヌスラ戦線に1日身柄を拘束されたことも。2014年10月下旬から11月にかけて、取材先のシリア近郊でイスラム国に身柄を拘束されたとされ、2015年1月30日頃に首を撥ねられ殺害されたと見られている。没年47歳。日本政府への取り引きでイスラム国がアップロードした脅迫映像の人質として世界的な話題となった末の惨劇であった。