2月5日の不幸
- 1597年
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【死刑】パウロ三木【宣教師】
安土桃山時代のキリシタンでイエズス会宣教師となり死後「日本二十六聖人」のひとりとなった人物。キリスト教の洗礼を受け洗礼名“パウロ”となり、1580年に宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノの下で日本初のセミナリヨ(小神学校)へ入学。1582年頃にイエズス会に入会し宣教師として活動を開始。1596年に「サン=フェリペ号事件」が起こるとその後捕縛され1597年2月5日に処刑された。推定没年齢37歳。
- 1661年
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【急死】【夭逝】順治帝(Shunzhi Emperor)【皇帝/清】
17世紀中国・清の皇族で第3代皇帝(1643年〜1661年)となった人物。第2代皇帝ホンタイジの息子として生まれ、1643年に6歳で皇帝に即位。即位後は摂政が行なわれ、1651年から親政を開始。以後、内政改革や鄭成功の北伐軍へ勝利するなど国内をほぼ平定するも1661年2月5日に天然痘で急死。没年24歳。
- 1969年
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【火災事件】「福島県磐梯熱海温泉・磐光ホテル火災事件」
1969年2月5日、福島県郡山市熱海町の磐梯熱海温泉・磐光ホテルで発生した火災。当時ホテルの目玉イベントであった金粉ショーで使用されていた松明に石油ストーブの火が引火。火災はホテルと隣接していたレジャー施設磐光パラダイスに広がりおよそ15,511平方メートルを焼失させ、宿泊客・ショーの見物客など合わせて死者31人、負傷者41人を出すこととなった。
- 1973年
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【殺人事件】「コインロッカーベイビー」
渋谷駅のコインロッカーに入っていた紙袋の中からで生まれたばかりの男児の死体が発見され、その衝撃をもって報道された事件。いまだ犯人は不明だが、その影響力は絶大で、同年、同様の事件が43県もコインロッカーでの死体遺棄事件が続発。社会問題化した。この事件をモチーフにした1980年の村上龍の小説『コインロッカー・ベイビーズ 』等、多くのフィクションのテーマとなったことでも知られている。
- 1984年
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【急死】エル・サント(El Sant)【プロレスラー/メキシコ】
メキシコのプロレス”ルチャ・リブレ”史上において最も人気のあった国民的英雄であり、その人気はプロレスの範疇を遙かに超え、多くの主演映画やコミック、アニメ等、伝説的な人気を博した。引退後のに出演したテレビ番組『Contrapunto』のゲストで初めてマスク外し、その素顔をみせた1週間後、1984年2月5日、心臓発作で死亡。没年66歳。実子に同じくルチャドールのスーパースター、エル・イホ・デル・サントがいる。
- 1993年
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【死去】ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ(Joseph Leo Mankiewicz)【プロデューサー・映画監督・脚本家/アメリカ合衆国】
20世紀アメリカで活躍した映画プロデューサー・監督・脚本家。新聞『シカゴ・トリビューン』特派員記者としてベルリンで勤務後、パラマウント映画ベルリン支部へ入社。ドイツ製サイレント映画へ英語字幕をつける仕事を行ない、これがきっかけで映画の脚本家となる。MGMへ移籍後の映画『地獄への挑戦』(1936年)で製作に携わり、以降プロデューサーとして『激怒』(1936年)『フィラデルフィア物語』(1940年)『女性No.1』(1942年)などヒット作を発表し注目を集める。1943年に20世紀フォックスへ移籍、1946年に『呪われた城』で映画監督デビューを果たす。1949年の『三人の妻への手紙』、1950年の『イヴの総て』でアカデミー監督賞・脚色賞を2年にわたり受賞し監督としても成功を収めることに。その後、1963年の大作『クレオパトラ』の興行的失敗により1966年の『三人の女性への招待状』から監督・脚本の両方を行なうことはなく1972年の『探偵スルース』の監督を最後に映画製作から引退。1993年2月5日に心不全で死去。没年83歳。
- 1996年
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【死去】小国英雄【脚本家・映画監督】
20世紀に活躍した映画監督および脚本家。大学卒業後、白樺派から影響を受け武者小路実篤主宰の村落共同体「新しき村」へ参加する。1927年に日活太秦撮影所へ助監督として入社しその後脚本部へ転属。1933年に映画『モダンマダム行状記録』で脚本家デビュー。その後、東宝へ入社し音楽映画『ロッパ歌の都へ行く』(1939年)などを監督。以降は『弥次喜多道中記』(1938年)といったマキノ正博監督作品や『生きる』(1952年)『七人の侍』(1954年)といった黒澤明監督作品の脚本を行ない、フリーランスとなる。1966年にTV番組制作会社C.A.L役員に就任。晩年は小国シナリオ塾を開設しシナリオライター育成に努めながら脚本家としても活躍。1996年2月5日に死去。没年91歳。
- 1997年
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【死去】中田ラケット【漫才師】
「いうてみてみ」「なんじゃとて」といった流行語を生んだ「中田ダイマル・ラケット」のコンビで知られる上方漫才を代表する漫才師。1941年、すでに漫才師としてデビューしていた兄・中田勇夫に誘われ、中田ダイマル・ラケットを結成。十三朝日座でデビューし「第二次世界大戦」中も地方巡業を行なう。戦後、劇団を結成し1946年から松長興業に属して少劇場に出演し、翌年『拳闘漫才』で人気を博す。1958年、朝日放送の専属タレントとなり『お笑い街頭録音』『スチャラカ社員』『ダイマル・ラケットのみんなの歌謡曲』などの番組に出演しお茶の間の人気者へ。1970年、吉本興行へ移籍し1978年に独演会『中田ダイマル・ラケット 爆笑三夜』を開催。その後もテレビや映画、舞台で活躍し1997年2月5日、心不全により死去。没年76歳。同年、上方演芸の殿堂入りを果たしている。
- 1998年
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【死去】山田重雄【バレーボール指導者・教員】
東京都立三鷹高等学校の女子バレーボール部の監督として1963年に同校を全国高等学校総合体育大会バレーボール競技大会優勝に導き、1965年に社会人バレー日立武蔵の監督に転身。白井貴子、中田久美、大林素子、吉原知子等のスター選手を育て同チームの黄金期を築き上げ、18回のリーグ優勝に導いた名将。全日本女子バレーの監督としても1968年メキシコ五輪で準優勝、1974年世界選手権、1977年ワールドカップ、1976年モントリオール五輪で優勝を獲得するなど輝かしい実績を収め日本女子バレーの黄金期を支えた。日本バレーボール協会常務理事も務めていたが、プロ化を控えたVリーグスタート直前の1994年に指導女性へのセクハラ疑惑が週刊誌上で報じられ、常務理事を退任。女子バレー界でもその影響力は失墜し、晩年は表舞台にも現われることなく66歳で死亡した。
- 2007年
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【死去】生恵幸子【漫才師】
戦後、主に大阪で活躍した「人生幸朗・生恵幸子」の夫婦漫才コンビで知られる人物。夫の北斗七星とコンビを組んでいたが、1952年に北斗が死去。その後、幸朗と出会い再婚し1954年にコンビを結成。1963年から吉本興業へ所属し演芸番組に多く出演。1982年、幸朗が急死、以降テレビのコメンテーターなどをしながら慰問活動を行ない、法務大臣賞を受賞。2007年2月5日に死去。没年83歳。
- 2008年
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【死去】マハリシ・マヘシ・ヨギ(Maharishi Mahesh Yogi)【宗教家/インド】
スワミ・ブラフマナンダ・サラスワティに弟子入りし、その後継を名乗り、本国インドに止まらず、独自の”超越瞑想”を提唱し巨万の富を築いたグル。1950年代頃からアメリカやイギリス等での活動で布教し、1960年代ののヒッピームーブメントに大きな影響を及ぼした人物として広く知られている。ザ・ビートルズ、ビーチボーイズやローリングストーンズ等数多くの超有名人が進んでその神秘の生徒となった。以降もスイスやオランダに拠点を持ちながら自らの教えを実践し続ける『世界計画』を進め、2001年には、アメリカアイオア州フェアフィールドに地上楽園都市「マハリシ・ヴェーディック・シティ」を設立するなど、神秘主義の範疇を超えた影響力を持ち続けた。そして2008年1月11日、自らの90歳の誕生日に引退を発表し、翌月2月5日に死亡。
- 2011年
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【獄中死】永田洋子【活動家】
連合赤軍の中央委員会副委員長として数々のテロや殺人に関与した新左翼活動家。「あさま山荘事件」に向かう途中で起きた同志12人のリンチ殺人「山岳ベース事件」の主犯格として知られる連合赤軍ナンバー2の位置にあった人物。あさま山荘事件決行直前の1972年2月17日、最高指導者の森恒夫と下山した際に逮捕。1993年2月19日に最高裁判所で死刑判決を受け、酵素も棄却され確定となっていたが、獄中で脳腫瘍が発症し、そのまま2011年2月5日に脳萎縮と誤嚥性肺炎で死亡。没年65歳。