2月9日の不幸
- 1881年
- 【死去】フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Mikhailovich Dostoyevsky)【小説家/ロシア】1846年に『貧しき人々』でデビューして以来、代表作『罪と罰』『白痴』に象徴されるような人間の本質を突き詰めた大作の数々でロシア国内のみならず、世界的な影響力を獲得した20世紀のロシアを代表する小説家。1880年、集大成的な作品と言われる『カラマーゾフの兄弟』脱稿後数カ月の翌年2月9日に肺気腫で死亡。59歳没。
- 1973年
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【急死】円谷一【演出家・プロデューサー・実業家】
ラジオ東京を経て東京放送に入社しドラマ制作に携わる。1963年にTBSでは初となる特撮テレビ映画『ウルトラQ』の制作を手掛け、その後の『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』と続く特撮シリーズの監督を務めた。1970年に父・英二が死亡すると、TBSを退社し円谷プロダクションの第2代社長に就任。『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』の制作を手掛けるが、糖尿病の悪化や離婚・再婚など心身ともに疲弊し1973年2月9日朝に脳溢血を起こし死亡。没年41歳。父の死からわずか3年だった。
- 1982年
- 【航空事故】「日本航空350便墜落事故」当時35歳の片桐清二機長が羽田空港に着陸寸前にエンジンを逆噴射させて滑走路から500メートル手前の海に墜落させた。乗員乗客174人中24人が死亡、150人が重軽傷を負う大事故なった。原因は幻覚をみていたという機長の心神喪失にあった。逮捕後の診断により機長は初期の精神分裂症、心身症、うつ病となり、不起訴処分になった。
- 1989年
- 【死去】手塚治虫【漫画家】大阪帝国大学医学専門部在籍時に『少国民新聞』大阪版連載マンガ『マアちゃんの日記帳』でデビューして以来、『新寶島』『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』など多くの少年漫画で国民的漫画家としての地位を確立。『リボンの騎士』『ブラックジャック』『火の鳥』等人気作品多数。早くからアニメーション作品も手がけ、『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』などの作品で我が国におけるアニメーション産業の祖ともいえる活躍をみせた。1989年1月に胃ガンと診断されてからも病床で漫画を書き続け翌月2月9日に60歳没。
- 2000年
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【死去】荒井注【コメディアン・俳優・ミュージシャン】
“ディス・イズ・ア・ペン””なんだバカヤロウ!”等の不条理なギャグで人気を博した元ザ・ドリフターズメンバーのコメディアン。ドリフが国民的グループへと駆け上がってゆくさなかの1974年3月に”体力の限界”との理由で同グループを脱退。以降は単独で役者・コメディアンとして活動した。晩年は伊豆に移住しカラオケボックスを建設したところ入り口が小さすぎてカラオケ機器が入らないという珍事件を起こした。入浴中の肝不全で死去。没年71歳。
- 2006年
- 【死去】藤田元司【プロ野球選手・監督】現役時代は巨人の背番号18番を背負うエースとして活躍。同球団を5度のリーグ優勝と2度の日本一に導き、新人王、2年連続のリーグMVPなどを獲得するも、登板過多が祟りわずか8年で引退(通算119勝)。引退後は川上哲治監督下で主に投手コーチとして活躍。その後暴力団絡みの交際が明らかになり球団を離れたが、1981年に巨人軍の監督に就任。投手力に裏打ちされた手堅い野球で、2度の監督期間で4度のリーグ優勝と2度の日本一にチームを牽引した。心不全で74歳没。
- 2012年
- 【死去】大平シロー【芸人・放送作家】レツゴー三匹に師事し、太平サブローとの太平サブロー・シローで1980年台の漫才ブーム期に活躍した漫才師。山下清や鳳啓助などのモノマネ芸でも人気を博した。1988年に所属事務所の吉本興業から独立したが、1999年に復帰。晩年は主に放送作家・伊東博としてバラエティ番組で活動。2012年2月4日に大阪市内の事務所で倒れ、難治性心室細動で同月9日に死亡した。没年55歳。
- 2019年
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【死去】佐藤純彌【映画監督・脚本家】
“ミスター超大作”と呼ばれた昭和から平成にかけて活躍した映画監督および脚本家。戦後1956年に東映へ入社し1963年に映画『陸軍残虐物語』で監督デビュー。1966年から東映アニメ作品『魔法使いサリー』で脚本を担当。1968年に東映を退社し『博徒斬り込み隊』(1971年)『新幹線大爆破』(1975年)などを発表。その後、『人間の証明』(1977年)『男たちの大和/YAMATO』(2005年)『桜田門外ノ変』(2010年)といった大作を発表。2019年2月9日に多臓器不全で死去。没年86歳。