『グリーンランドで2011年に発行された植村直己の記念切手』

1984年2月13日は、世界初の五大陸最高峰登頂に成功した世界的冒険家、植村直己が前日に世界で初めてマッキンリー冬期単独登頂に成功しながら、その帰路で消息を絶った日である。
1966年7月に西ヨーロッパ最高峰のモンブラン(標高4810.9メートル/フランス・イタリア)、同年10月24日にアフリカ最高峰のキリマンジャロ(標高5,895メートル/タンザニア)、1968年2月5日に南米最高峰のアコンカグア(標高6,960.8メートル/アルゼンチン・チリ)、1970年5月11日にアジア最高峰のエベレスト(標高8,850メートル/ネパール・中国チベット自治区)、同年8月26日に北米大陸最高峰のデナリ(かつてはマッキンリーと呼ばれていた。標高6,190メートル/アメリカ)の単独登頂に成功した人類初の人物となった植村。
1978年には犬ぞりで人類史上初の北極点単独行、グリーンランド縦断にも成功し、日本人として初めて『National Geographic』の表紙に採用され、その前人未到の偉業の数々により、世界的名声が確立した。
しかし、その後、植村の進む道は無謀ともいえるレベルになってゆく。
1980年、エベレストの厳冬期登頂に臨むも隊員・竹中昇の死亡事故により断念、1982年には南極点単独犬ぞり行に臨んだが協力予定だったアルゼンチン軍のフォークランド紛争勃発により断念。
そして1984年2月12日、43歳の誕生日に、マッキンリーの冬季単独登頂に成功したが、その翌日の連絡を最後に消息を絶つことになった。
2度の失敗を経て、成功を急いだのではという疑念も起きた植村の最終行であったが、その心の底に持った絶大な衝動を抜きにして、数々の偉業を語ることはできないであろう。
その意味で、日本が誇る“冒険王”の最後も、世界に誇るべき偉業であったといえるであろう。
1984年4月19日に国民栄誉賞が与えられた他、6月19日にデンマーク政府はグリーンランドのヌナタック峰を、「ヌナタック・ウエムラ峰」に改称、そして2011年にはその偉業の舞台となったグリーンランドで記念切手が作られている。
なお、いまだ植村の遺体は発見されていないが、人類未踏を常とする人物の終着地であっただけに、我々がいまだそこにたどり着けないのも当然であるのかもしれない。

(画像はグリーンランド政府が2011年7月28日に発行した植村直己記念切手)

2月13日の不幸

1130年
【死去】ホノリウス2世 (Honorius II)【ローマ教皇/イタリア】

12世紀イタリアで第163代ローマ教皇(1124年〜1130年)となった人物。1124年前教皇カリストゥス2世が死去したため教皇に選出された。この教皇選挙では後継者争いが勃発しローマはしばらく争乱が続いた。1130年2月13日に死去。推定没年齢70歳。

1657年
【自殺】マイルス・シンダコム(Miles Sindercombe)【政治家/イングランド共和国】

護国卿オリヴァー・クロムウェルの暗殺を図ったことで知られるイングランド共和国時代の指導者。清教徒革命でのイングランド内戦で円頂党平等派の党員となり1649年に所属していた隊で反乱を起こすも失敗し逃亡。その後、1655年にスコットランドの騎兵として軍を掌握する計画に参加するも失敗しネーデルラント連邦共和国へ逃亡。1657年、護国卿オリバー・クロムウェル暗殺を計画するも失敗におわり捕縛されロンドン塔へ。1657年2月に有罪判決を受け、同月13日に塔内で自殺した。没年年齢不明。

1692年
【大量虐殺】【ジェノサイド】「グレンコーの虐殺」

1692年2月13日にスコットランド・ハイランド南西部の村グレンコーでステア伯ジョン・ダルリンプルら革命支持強硬派による族長および村人78人を殺害する虐殺事件が発生。虐殺理由はウィリアム3世に服従するといった旨のハイランド市族長たちの署名が提出期限を過ぎたためであった。事件後、イングランド・スコットランド間の関係は悪化することとなった。

1862年
【襲撃事件】「坂下門外の変」

1862年2月13日に江戸城・坂下門外で老中・安藤信正が攘夷派の平山兵助ら水戸藩浪士により襲撃され負傷。その後、背中を負傷したことで武士道精神に反するとされ罷免されることに。

1883年
【死去】リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)【作曲家・台本作家・指揮者・評論家/ドイツ】

19世紀ドイツのロマン派歌劇を代表する作曲家・台本作家・指揮者および評論家。10代から作曲を行ない、1828年にルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンに影響を受け音楽家を志す。ライプツィヒ大学に入学中退後に音楽家テオドール・ヴァインリヒから対位法作曲を学ぶ。1832年に『交響曲第1番ハ長調』と初の歌劇『婚礼』を作曲。翌年にヴュルツブルク市立歌劇場合唱指揮者となる。1834年に初の論文『ドイツのオペラ』を匿名で新聞へ発表。1834年にベートマン劇団指揮者となり『恋愛禁制』を作曲、同劇団が解散後は劇場指揮者をしながら転々とする生活へ。1839年に負債から逃れるためロンドンへ密航。1840年に歌劇『最後の護民官リエンツィ』を作曲。作曲家ジャコモ・マイアベーアの紹介で出版社の写譜などの仕事をする傍ら雑誌へ小説『ベートーヴェン巡礼』を連載。1841年にドイツ・ドレスデン国立歌劇場で『最後の護民官リエンツィ』を上演し成功を収める。1842年に『さまよえるオランダ人』を作曲、翌年に宮廷楽団ザクセン国立歌劇場管弦楽団指揮者に就任し同作を上演。1845年に『タンホイザー』を作曲・上演。1846年にベートーベンの『第九』を演奏し大成功を収め、以後同作が名曲としての評価を確立することに。1848年に『ローエングリン』を作曲。1847年に宮廷楽団ザクセン国立歌劇場管弦楽団指揮者を辞任。1848年に「ドイツ三月革命」が勃発し論文『革命』を発表。翌年「ドレスデン蜂起」へ参加しスイスへ亡命。亡命中は『芸術と革命』(1849年)『音楽におけるユダヤ性』(1850年)などの論文を執筆。1850年に代表作のひとつ『ローエングリン』をドイツ・ワイマールで上演。1851年に超大作『ニーベルングの指環』の制作を開始、1859年に『トリスタンとイゾルデ』が完成。1860年にパリでワーグナー作品演奏会が開催され同年にザクセン以外のドイツ諸邦への入国が許可される。1864年にザクセンへの追放令が取り消される。1865年にバイエルン国王ルートヴィヒ2世のためのオペラ『パルジファル』を執筆。1867年に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し翌年にミュンヘン宮廷歌劇場で上演。1870年に『ジークフリート牧歌』を発表、1874年に『ニーベルングの指環』が完成。1876年にルートヴィヒ2世の援助を受け自身の作品のためのバイロイト祝祭劇場が完成し『指環』を上演。1881年に論文『汝自身を知れ』『英雄精神とキリスト教』などを発表。1882年に舞台神聖祝典劇『パルジファル』を完成・上演。1883年2月13日ヴェネツィア旅行中に急性心筋梗塞で死去。没年69歳。

1945年
【第二次世界大戦】「ドレスデン爆撃」

1945年2月13日に連合国軍のイギリス空軍・アメリカ空軍が1,478tの爆弾と1,182tの焼夷弾を搭載したランカスター爆撃機(796機)とデハビランド・モスキート(9機)でドイツ東部の無防備都市宣言をしていたドレスデンを無差別爆撃。この爆撃は同月15日まで続き、ドレスデンの85%が破壊されおよそ2万千人から15万人の一般市民が死亡。

1950年
【レッドパージ】「共産主義教員・246人退職勧告」

1950年2月13日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)総司令官ダグラス・マッカーサーにより、東京都教育庁が共産主義の教員246人に退職勧告。

1959年
【死去】平沼亮三【政治家・実業家・アマチュアスポーツ選手】

昭和のアマチュアスポーツ選手および政治家・実業家で“市民スポーツの父”と呼ばれる人物。慶應義塾大学在学中に野球部で活躍し1925年に日本陸上競技連盟の初代理事長へ就任。日本陸上競技連盟初代会長、大日本排球協会(現:日本バレーボール協会)初代会長、日本体操協会初代会長を経て「ロサンゼルスオリンピック」(1932年)「ベルリンオリンピック」(1936年)選手団長に就任。1950年に横浜商工会議所会頭となり翌年に横浜市長に就任。1955年の国民体育大会秋季大会開会式で76歳にして炬火の最終ランナーを努め同年11月にスポーツ振興の功績で文化勲章を受章。横浜市長在職中の1959年2月13日に死去。没年79歳。死後の同年に勲一等瑞宝章を授賞、1979年に野球殿堂入りとなった。

1960年
【人権運動】【国際問題】「ナッシュビル座り込み」

1960年2月13日から同年5月10日にかけてアメリカ・テネシー州ナッシュビルでナッシュビルの学生とキリスト教指導者らによる市内飲食店での人種差別撤廃を求める非暴力による座り込みでのデモ運動を開始。およそ4,000人となった参加者の多くは黒人大学生でその後デモは成功を収めた。

1961年
【死去】村松梢風【小説家・随筆家】

大正から昭和にかけて活躍した小説家および随筆家。教師などを経て1917年に小説「琴姫物語」で作家デビュー。以後、執筆活動を行ない1923年に上海へ渡航したことをきっかけに『魔都』を発表。1924年に尾形光琳といった日本画家の伝記『本朝画人伝』を発表。1926年に個人雑誌『騒人』を創刊。その後、清朝王女川島芳子を取材した『男装の麗人』(1933年)、歌舞伎俳優の二代目尾上菊之助を描いた『残菊物語』(1937年)などを発表。晩年も執筆活動を続け1961年2月13日に死去。没年71歳。

1967年
【死去】鮎川義介【実業家・政治家】

明治から昭和にかけての実業家および政治家で日産コンツェルン創始者として知られる人物。井上馨の大姪で旧長州藩士当主の息子として生まれ、大学卒業後に芝浦製作所へ入社。1910年に戸畑鋳物株式会社(現・日立金属)を創立しマレブル継手の製造で成功を収める。1921年に電気炉による可鍛鋳鉄製造を開始。翌年に株式会社木津川製作所を設立。安来製鋼所を吸収合併し1924年に農業用などの石油発動機製造を販売開始。1926年に株式会社木津川製作所・帝国鋳物株式会社を吸収合併し“東洋一のロール工場”となる。1928年に久原鉱業社長へ就任し社名を日本産業(日産)へ改称。その後、日産自動車・日立製作所・日産化学・日本冷蔵などの企業を収め日産コンツェルンを形成させる。1929年に日本鉱業株式会社、1933年に自動車製造株式会社を設立。1935年に伊豆大島へ公園(現・都立大島公園)を設立。1937年に満州国へ日本産業を移し満州重工業開発株式会社の初代総裁・相談役、満州国顧問・貴族院勅選議員・内閣顧問へ就任。1942年頃に同社の総裁を辞任、翌年に内閣顧問へ就任。「第二次世界大戦」後の1952年に中小企業助成会を設立し会長へ就任。1953年に帝国石油社長、石油資源開発社長へ就任。1956年に日本中小企業政治連盟を開設し同連盟総と、全国中小企業団体中央会会長へ就任。晩年も経済最高顧問や東洋大学名誉総長、産業計画会議委員などを努め、1967年2月13日に急性肺炎で死去。没年86歳。

1974年
【国際事件】「アレクサンドル・ソルジェニーツィン国外追放」

ソ連の作家で1970年にノーベル文学賞を受賞したアレクサンドル・ソルジェニーツィンが1974年2月12日に逮捕され、翌13日に国家反逆罪によりソ連市民権を剥奪され西ドイツ・フランクフルトへ国外追放処分となる。その後、1994年に帰国。

1977年
【青酸コーラ無差別殺人事件】「大阪・青酸入りコーラ事件」

1977年1月3日・4日と東京都で相次いで発生した「青酸入りコーラ事件」が、同年2月13日に大阪府藤井寺市でも発生。被害者は同市に住む会社員の男性(当時39歳)で公衆電話に置かれていた青酸入のコーラを飲み意識不明にとなったとされ、一命を取り留めるもその後自宅でガス自殺をしている。

1982年
【急死】江利チエミ【歌手】

幼い頃から吉本興業に所属する子役であり、終戦直後の1952年に『テネシーワルツ/家へおいでよ』でレコードデビュー。同年に映画『猛獣使いの少女』に初主演し、天才少女として美空ひばりに並び称された。ジャズ、カントリーなどの洋楽のカバーでヒット曲を連発した。また、役者としても映画『サザエさん』の主役として国民的人気を不動のものとした。私生活では1959年に高倉健と結婚、引退したが1960年に芸能界に復帰。1971年に離婚した。1982年2月13日に港区高輪の自宅マンションのベッドの上でうつ伏せのまま倒れて死んでいるところをマネージャーが発見。45歳没。死因は脳卒中と、吐瀉物による窒息(誤嚥)とされている。

1984年
【消息不明】植村直己【冒険家】

世界初の五大陸最高峰登頂(モンブラン、キリマンジャロ、アコンカグア、エベレスト、デナリ”マッキンリー”)に成功した世界的冒険家。人類史上初の北極点単独行、グリーンランド縦断にも成功し、日本人として初めて『National Geographic』の表紙に採用された。1984年2月12日、43歳の誕生日にデナリの冬季単独登頂に成功したが、その翌日の連絡を最後に消息を絶つことになった。現在もその遺体は発見されていない。死後の4月19日に国民栄誉賞が与えられた。

1985年
【グリコ・森永事件】「東京都・愛知件・青酸入チョコレート発見」

1985年2月13日に東京都と愛知県で「どくいり きけん」と書かれたラベルの貼られた青酸入りチョコレートが相次いで発見される。グリコ・森永・不二家・明治製菓・ロッテのチョコが対象となっており、事件の直前には報道機関へバレンタインデーを粉砕するといった内容の挑戦状が送られていた。

1989年
【リクルート事件】「リクルート会長・江副浩正逮捕」

1988年6月にリクルート社会長の江副浩正らが子会社のリクルート・コスモス社の未公開株を政治家・官僚などへ譲渡していたことが発覚。翌1989年2月13日、東京地検特捜部が江副およびファーストファイナンス副社長、NTT元取締役2人を贈収賄容疑で逮捕。

2000年
【連載終了】「漫画『ピーナッツ』(日曜版)連載終了」

2000年2月13日、1950年から50年間にわたり連載されていた漫画『ピーナッツ』(日曜版)がこの日をもって連載を終了。作者であるチャールズ・モンロー・シュルツは1999年12月に引退を発表、最終回を書き上げ発行の前日である12日に死去している。

2004年
【暗殺】ゼリムハン・ヤンダルビエフ(Yandarbin Abdulmusliman-khant Zelimxan)【指導者・政治家/チェチェン・イチケリア共和国】

20世紀チェチェン・イチケリア共和国のチェチェン独立派指導者で国際的未承認の同国第2代大統領(1996年〜1997年)となった人物。1989年にチェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国作家連盟文学顧問およびチェチェン人政治組織『バルト』総裁となる。1990年にヴァイナフスク民主党を結党。チェチェンの独立を目指しチェチェン民族全国民会議を設立し執行委員会副議長に就任。1993年にチェチェン副大統領代行へ就任。「第一次チェチェン紛争」へ参加したことによりロシア当局から反逆罪などで起訴されることに。1996年にチェチェン共和国大統領へ就任し同年に停戦協定へ署名。1999年にチェチェン共和国大統領私設公使の在ムスリム諸国全権代表、翌年に在アフガニスタン・イチケリア代表となる。その後、2004年2月13日に車に仕掛けられた爆弾により暗殺された。没年51歳。暗殺はロシア情報機関職員によるものとされている。

2005年
【死去】ルシア・ドス・サントス(Lúcia de Jesus dos Santos)【修道女/ポルトガル】ファティマ出身の修道女。10歳の頃にファティマの聖母の目撃者となった3人のうちの1人で、2人の死を乗り越えドロテア修道会に入り、1948年にはローマ教皇ピオ12世によってカルメル会に転属された。ローマ教皇庁により奇跡認定されたファティマの聖母の予言を受けたものとして、生涯に渡りあらゆる脅迫や陰謀の対象となった。晩年は視力・聴力も失ったが、修道女としての生活を全うし97歳で死亡した。
2007年
【死去】【夭逝】エリアナ・ラモス(Eliana Ramos)【ファッションモデル/ウルグアイ】

2000年代前半に活躍したウルグアイのファッションモデル。モデルとして活躍中の2007年2月13日に心不全で死去。没年18歳。姉でモデルのルイゼルは2006年に神経性食欲不振による心不全で22歳で死亡している。

2008年
【死去】市川崑【映画監督】アニメーターとして活動し、1936年に短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表。戦後から実写映画の監督に転身し、『ビルマの竪琴』『野火』『東京オリンピック』『犬神家の一族』等あらゆるジャンルで数々の名作を遺した。また、テレビドラマの『木枯し紋次郎』シリーズ、CMの『サントリーレッド』シリーズ等、映画以外のジャンルでも意欲的な活躍をみせた。ほぼすべての作品を妻であり脚本家の和田夏十と共作したことでも知られる。2008年2月13日午前1時55分に肺炎で92歳没。
2012年
【急死】久島海啓太【大相撲力士・指導者】

日本大学時代に学生相撲で目覚しい業績を残し出羽海部屋に入門。久島海の四股名で将来を嘱望されたが、大相撲では周囲の期待ほどの実績は残せず、幕内最高位は前頭筆頭だった。幕内通算35場所237勝273敗。引退後は準年寄・久島海、1999年からは年寄田子ノ浦として後進の指導にあたっていた。2003年に急性心筋梗塞で緊急入院したがすぐに復帰。以降は80キロ以上の減量で体調管理に努めていたが2012年2月13日に家族の前で昏倒。意識不明、心肺停止状態で病院に搬送されたがそのまま死亡した。46歳没。死因は虚血性心不全と発表され、転倒時に唇を切ったことがその原因とされる。

2017年
【暗殺】金正男(Kim Jong-nam)【政治家/朝鮮民主主義人民共和国】

朝鮮民主主義人民共和国の政治家で第2代最高指導者・金正日労働党総書記の長男として知られる人物。金正日の息子として生まれ、1988年にコンピュータ委員会委員長となり、朝鮮コンピューターセンターを開設。1995年、朝鮮人民軍の大将となり翌年、朝鮮人民軍保衛司令部責任者に就任。2017年2月17日、マレーシア・クアラルンプール国際空港でマカオへの出国手続き中にベトナム国籍のドアン・ティ・フオンとインドネシア国籍のシティ・アイシャの女性2人にVXガスで襲われ暗殺された。没年45歳。襲った二人はともに逮捕されており殺人罪が適用されれば死刑判決となる。

2017年
【死去】鈴木清順【映画監督】

昭和から平成にかけて活躍した映画監督。1948年に松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験に合格し同社へ入社。1951年に映画監督・岩間鶴夫の専属助監督を務め、1954年に日活へ移籍。移籍後は映画監督・野口博志に師事。1956年に中川順夫らと共同脚本した『勝利をわが手に』で映画監督デビュー。以後『関東無宿』(1963年)『肉体の門』(1964年)『東京流れ者』(1966年)などを発表し“清順美学”と称され熱狂的なファンを獲得することに。1967年に発表した『殺しの烙印』が日活社長・堀久作の怒りを買い、同社を解雇され「鈴木清順問題共闘会議」へ発展。1971年に和解し映画製作を再開、1977年に『悲愁物語』を発表。1980年に『ツィゴイネルワイゼン』を発表しキネマ旬報ベストワン、芸術選奨文部大臣賞、日本アカデミー賞最優秀賞作品賞・監督賞、ベルリン国際映画祭審査員特別賞を受賞し国内外で高い評価を受ける。その後、大正三部作と呼ばれる『陽炎座』(1981年)『夢二』(1990年)を発表。2001年にヴェネツィア国際映画祭・偉大なる巨匠に捧げるオマージュの盾などを受賞した『ピストルオペラ』を発表。2005年に『オペレッタ狸御殿』を発表。晩年も映画界で活躍し2017年2月13日に慢性閉塞性肺疾患で死去。没年93歳。