『1984年頃NWA世界ヘビー級チャンピオン時代のケリー・フォン・エリック』

1993年2月18日は、プロレスラーのケリー・フォン・エリックが拳銃自殺を遂げた日である。
プロレス初期を代表する“必殺技”アイアン・クローの産みの親である大悪役レスラー、“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックの四男として知られる『テキサス・トルネード”ことケリーは、エリックの5人の息子たちの中でも最も将来を嘱望されたスターレスラーであったが、他の兄弟3人とともに父親よりも早い死を迎え、他の2人と同じくして《自殺》を遂げた人物である。
1984年に三男のデビッドが日本で25歳で急死したのに続き、まず最初に自殺したのは五男のマイク。
病気とストレスから薬物過剰摂取で23歳の若さで自殺(1987年)。
これに続いたのが六男のクリス。
兄弟で最も小さな体だった彼はレスラーとしての能力不足からストレスを溜め、マイクの自死を引きずっていたこともあり、21歳の時に拳銃で自らの頭を撃ち抜いた(1991年)。
そして兄弟の中でもスター性では飛び抜けていた四男のケリーまでが自殺で続いたのである。
1986年6月にバイク事故で右脚を切断して以降、義足を付けて奇跡のカムバックを果たしたものの、薬物中毒の末に逮捕。
その有罪が確定した日に、父の牧場で心臓を打ち抜いた。
1993年、まだ33歳での死だった。
晩年は、彼もまた「弟たちに続きたい」と仲間のレスラーには打ち明けていたという。
《自殺は連鎖するのか》――あらゆるところで議論されるそのテーマにおいて、エリック一家の悲劇は何よりも参考になる事例であろう。
プロレスラーという職業まで共通している家族なだけに、その連鎖は容易に避けられないものであったのかもしれない。

(写真はWikipedia Kerry Von Erichより使用)

2月18日の不幸

1405年
【死去】ティムール(Tīmūr)【軍人・国王】バルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれ、天才的軍事能力により中央アジアから西アジアにかけて、モンゴル帝国の半分ともいわれる広大な帝国・ティムール朝を創始した建国者。オトラルにて68歳没。最後の言葉は「神のほかに神はなし」。
1546年
【死去】マルティン・ルター(Martin Luther)【宗教家・神学者・牧師/ドイツ】

聖アウグスチノ修道会所属のドイツ人神学教授として”ルター主義”と呼ばれる”信仰のみ主義”によってキリスト教を改革した宗教改革者。その思想は『95ヶ条の論題』として発表された。1546年2月18日に故郷のアイスレーベンで62歳没。

1564年
【死去】ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)【彫刻家・画家・建築家/イタリア】

『ピエタ』『ダヴィデ像』等の彫刻作品、『最後の審判』『アダムの創造』『システィーナ礼拝堂天井画』などの絵画作品で知られるイタリア盛期ルネサンスを代表する芸術家。レオナルド・ダ・ヴィンチとともに万能の天才として知られ、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の建築にも関わるなど、あらゆる分野で史上最も有名な部類に入る作品を遺している。ローマで88歳没。

1743年
【死去】アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa de’Medici)【貴族/イタリア】

ルネサンス期のイタリア・フィレンツェに君臨したメディチ家の直系で最後の直系といわれる人物。1691年にプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムと結婚するも、子供をもたないまま1716年に夫と死別。1743年に75歳で死亡。遺言でメディチ家の膨大な美術コレクションがフィレンツェに留まり続け一般公開されることを条件に、所有するすべての美術品をトスカーナ政府に寄贈した。

1887年
【死去】中山みき【宗教家】

1838年12月12日に「月日のやしろ」に定まり、立教したといわれる天理教の教祖(おやさま)。明治期の宗教弾圧にめげることなく布教に努め、数度の拘留を繰り返しながらも90歳までその活動を続けた。

1891年
【死去】三条実美【政治家・貴族】

幕末の公卿で明治維新後に元勲となった人物。公卿の家に生まれ、1863年の「八月十八日の政変」により長州へ移動(七卿落ち)。1864年「第一次長州征伐」が勃発すると太宰府で幽閉生活へ。1867年「王政復古」により政府の議定、副総裁、右大臣を経て1871年に太政大臣に就任。1882年、大勲位菊花大綬章受章。1885年に太政官制が廃止、内閣制度となり内大臣に就任。1889年、黒田清隆が内閣総理大臣を辞任すると内大臣と内閣総理大臣を2カ月間兼任。その後、内大臣在任中の1891年2月18日にインフルエンザにより死去した。没年53歳。

1938年
【自殺】レオポルド・ルゴネス(Leopoldo Lugones)【詩人・短編作家/アルゼンチン】

近代のアルゼンチンを代表する詩人および短編作家のひとりで主にモデルニスモ文学で知られる人物。大学卒業後の1890年代に職を転々とした後、新聞『El Pensamiento Libre』で記者デビュー。以後、社会主義グループに参加し詩作を開始。1897年、詩集『Las montañas del oro(黄金の山々)』を刊行。その後、詩集『Los crepúsculos del jardín(庭園の黄昏)』(1905年)、短編集『Las fuerzas extrañas(奇妙な力)』(1906年)、『Lunario sentimantal(感傷的な暦)』(1909年)などを発表。1910年、アルゼンチンの独立100周年記念として『Odas seculares(世俗的な頌歌)』を発表しアルゼンチンを代表する詩人となる。1928年にアルゼンチン作家協会を開設、議長に就任。この頃からファシズムに傾倒、批判を受け精神不安定となり、1938年『Romances del Río Seco(リオ・セコのロマンセ)』を発表後、同年2月18日にシアン化カリウムで服毒自殺した。没年63歳。

1939年
【死去】岡本かの子【小説家・家人】

芸術家・岡本太郎の実母として知られる小説家。17歳の頃に与謝野晶子を訪ね新詩社の同人として『明星』『スバル』等で大貫可能子名義で新体詩・和歌を発表していたが19歳の頃に知り合った漫画家の岡本一平と21歳で結婚し、長男太郎を出産。その後は一平との家庭内不和などもあり精神科に入院。退院後は早稲田大学学生の堀切茂雄を同居人として一平に認めさせ、複雑な家庭生活を続けた。晩年の1936年に『鶴は病みき』を発表し本格的な小説家活動を開始。『母子叙情』『老妓抄』『生々流転』等を連続して発表した。1939年にある青年と訪れた油壷の宿で脳溢血で倒れ、2月18日に死亡した。49歳没。

1967年
【死去】ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)【物理学者/アメリカ合衆国】

ブラックホール研究やマックス・ボルンとの『ボルン−オッペンハイマー近似』などで知られる物理学者であったが、第二次世界大戦時にロスアラモス国立研究所の所長に抜擢され世界初の原子力爆弾を開発。広島、長崎への原爆投下を可能にした研究成果で”原爆の父”と呼ばれた。第二次大戦後は原爆の戦争使用を悔やみ、ソ連との核戦争を回避するために活動したが、水爆反対運動をきっかけに公職追放処分になり、生涯に渡りFBIの監視下に置かれた。1965年に咽頭ガンと診断され、1967年2月18日にニュージャージー・プリンストンの自宅で死亡した。62歳没。

1983年
【死去】和田夏十【脚本家】

戦後に活躍した脚本家で市川崑の妻として知られる人物。東宝撮影所に通訳として勤務、この頃市川崑と出会い1948年に結婚。以後、市川作品の脚本を多く手がけ、1965年に乳ガンを発症してからは脚本家として市川にアドバイスを続けた。1983年2月18日同病により死去。没年62歳。

1993年
【自殺】ケリー・フォン・エリック(Kerry Von Erich)【プロレスラー/アメリカ合衆国】

《鉄の爪》といわれた必殺技アイアン・クローの産みの親である大悪役レスラー、フリッツ・フォン・エリックの四男として知られ”テキサス・トルネード”の異名で活躍したプロレスラー。1984年にNWA世界ヘビー級チャンピオンを獲得するなど5人の兄弟の中でも最も将来を嘱望されたスターレスラーであったが、1986年6月にバイク事故で右脚を切断して以降私生活は破綻。義足を付けて奇跡のカムバックを果たしたものの、薬物中毒の末に逮捕され、その有罪が確定した日に、父の牧場においてショットガンで心臓を打ち抜いた。没年33歳。

2001年
【死去】バルテュス(Balthus)【画家/フランス】

代表作『鏡の中のアリス』『ギターのレッスン』『夢見るテレーズ』等少女や女性を描いた絵画の数々で知られるフランスを代表する画家。生前にルーブル美術館に展示されることになった数少ない画家としても知られ、『ブランシャール家の子どもたち』を購入したピカソいわく、”20世紀最後の巨匠”とされる。1962年に来日時に知り合った出田節子と結婚。晩年移住したスイスのロシニエールで92歳没。フランス大統領も出席した葬儀ではU2のボノが歌唱した。

2003年
【放火事件】「大邱地下鉄放火事件」

2003年2月18日、韓国・大邱広域市の地下鉄中央路駅に到着した第1079列車(1000系118編成)の車内で無職のキム・デハン容疑者(当時57歳)がペットボトルに入ったガソリンを撒き放火した事件。火災発生からおよそ3分後、対向列車・第1080列車(1000系130編成)が同駅に入線し延焼、その後、駅構内にも延焼した。この火災による死者は192人、負傷者は148人となっているが、火災により通電できなかったこと、また運転士や駅員が火災に対応できなかったため車内に閉じ込められた多くの乗客が焼死することとなった。キムは放火後その場から逃走していたが、事件直後に逮捕され無期懲役の判決を受けた後、服役中の2004年に脳卒中の後遺症で死亡している。