『ノルブラン作「ワルシャワの古市場町での反逆者の処刑」』

1830年2月23日は、19世紀のポーランド啓蒙主義を代表する画家であるジャン=ピエール・ノルブラン・ド・ラ・グルデーヌが死亡した日である。
フランス出身ながら後半生のほとんどをポーランドで過ごし、そこで市民権を得ていたノルブランの最も有名な作品のひとつが、当時の第2次ポーランド分割へと向かう国家を描いた『ワルシャワの古市場町での反逆者の処刑』である。
タルゴヴィツァ連盟への参加者を国家の敵と見なし処刑している政府軍であったが、そのメンバーが捕まらなかった場合は肖像画を絞首刑にしていたというが、現在からみれば長閑な、しかし人間の怒りの異常性をとらえている。

(画像はWikipedia Jean-Pierre Norblin de La Gourdaineより使用。Public Domain)

2月23日の不幸

1507年
【死去】ジェンティーレ・ベリーニ(Gentile Bellini)【画家/イタリア】

イタリアルネサンス期のヴェネツィア派の画家。代表作に『サンマルコ広場での聖十字架の行列』などがある。ヴェネツィア派初期に活躍した画家の一族に生まれ、父ヤコーポ・ベリーニはヴェネツィア派を創始した人物でもある。1474年からヴェネツィアのドージェ(国家元首)から公式の画家として認められ、多くの肖像画を描いた。1479年にはオスマン帝国のスルタン・メフメト2世の要請を受けイスタンブールへと出向き、肖像画を描いている。1507年2月23日にヴェネチアで死去。没年78歳。

1572年
【死去】ピエール・セルトン(Pierre Certon)【作曲家/フランス】

シャンソンの発展に影響を与えた、ルネサンス時代に活躍したフランスの作曲家。1536年からパリの中心部シテ島にある教会「サント・シャペル」の聖歌隊長に就任し、生涯にわたりその任に就く。パリでの活動により、ミュロン大聖堂参事会員の資格を得る。資格を得てからは聖堂参事会の活動として数多くの楽曲を提供している。セルトンは、ミサ曲のほか、数え切れないほどのシャンソンを作曲。そのシャンソンは、フランス語のリズムの特徴を活かしたものとなっている。1572年2月23日に死亡。推定没年57歳〜62歳。

1974年
【自殺】ウィリアム・F・ノーランド(William Fife Knowland)【政治家・軍人・実業家・ジャーナリスト/アメリカ合衆国】

カリフォルニア州下院議員、カリフォルニア州上院議員、連邦上院議員を務め、上院では共和党政策委員長等を務めた政治家。1958年のカリフォルニア州知事選にに敗れ政界から引退。1964年に父の後を受けて『オークランド・トリビューン』紙の発行人兼主筆に。1974年2月23日に自宅で拳銃自殺。晩年の私生活は破綻しており、銀行、ギャングに90万ドル以上の借金を残していた。

1975年
【死去】ハンス・ベルメール(Hans Bellmer)【人形作家・画家・写真家・デザイナー/ドイツ】

人体を解体・分解したような球体関節人形やそれを使用した写真、イラストで知られるシュルレアリズムを代表するアーティスト。代表作に写真集『Die Puppe(人形)』(1934年)など。1938年からはナチスから逃れパリに拠点を移し、マルセル・デュシャン、マックス・エルンストらとともに活動した。1969年に脳卒中で半身不随に。翌年長年のパートナーであった画家のウニカ・チュルンが投身自殺を遂げる。1975年2月23日に膀胱ガンで72歳没。チュルンとともにパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。

1999年
【死去】カルロス・ハスコック(Carlos Norman Hathcock II)【軍人・狙撃兵・狙撃アドバイザー/アメリカ合衆国】

アメリカ海兵隊の狙撃兵の中でも史上最も有名なひとり。ベトナム戦争中に活躍し「ホワイト・フェザー」の異名で恐れられた。このの異名は愛用していた迷彩用帽子に白い羽を留めていたことに由来。海兵隊に入ることが夢だったハスコックは、1959年、17歳で海兵隊に入隊後、すぐに狙撃兵としての頭角を表わす。1965年、ベトナムへ配属されたハスコックは、新設されたスナイパースクールの教官に選抜され海兵隊の最前線のひとつ第55高地へと送られた。ベトナム兵の狙撃に苦戦していた第55高地へ赴くとその能力を実戦でも発揮し、敵のフランス人指導将校の狙撃に成功。この他、約2,300メートル先の谷向こうにいるベトナム兵を、スコープを装着したM2機関銃で狙撃。また、「コブラ」と呼ばれるスナイパーとの対決ではスコープを貫き、目に命中させた。ベトナム戦争時にハスコックが狙撃した人数は300人以上ともいわれ、ベトナムから賭られた賞金は現代の貨幣価値で1億2000万円にものぼる。1969年に地雷により負傷してからは、教官として活躍。1979年に多発性硬化症を発症し退役。その後も教官を続けたが、1999年に家族に看取られ死去。没年56歳。