『ヘンリー・R・エヴァンス著「The Old and the New Magic」に掲載されたチャン・リン・スーの宣材写真』

1918年3月24日は、20世紀初頭にイギリスで活躍した“謎の中国人マジシャンチャン・リン・スー”ことアメリカ人、ウィリアム・エルスワース・ロビンソンが“弾丸受けマジック”で死亡した日である。
スコットランド生まれのアメリカ人の父親がマジシャンであったことから14歳の頃にはステージに上がり始めたロビンソンは、チャン・リン・フーなる中国人マジシャンが打ち出した「自らのトリックをコピーできる人間に賞金1,000ドルを進呈する」という懸賞にチャレンジし、その方法を突き止めた。
しかし、チャンは正解を持ったロビンソンに決して会ってくれなかったという。
この時の恨みがあったかどうかは知らないが、その後1900年頃にヨーロッパのエージェントが「ツアーに出演する中国人マジシャンを探している」という情報を聞きつけると、自らが中国人“チャン・リン・スー”として生きることを決意。
中国服と弁髪、顔は厚塗りのドーランで黄色人種になりすまし、以降、公の場では決して英語を話すことはなくなった。
そして彼はヨーロッパでも最も高収入なマジシャンにまで上り詰め、前出のチャン・リン・フーが羨むほどの名声を獲得した。
するとスーがロビンソンであることを知っていたフーは、世間にそのことを暴露し、遂にマスコミ立ち会いの下で両者は対面を果たす。
その時、人気面で大きな差を付けられていた“本物の中国人”は、マスコミがスーの正体を暴きたいと思っていないことに気づき、愕然とした。
結局、人気面で本物の中国人が偽物を上回ることはできなかったのである。
そんなスーが最も得意としていたマジックは、17世紀から存在したといわれる「弾丸受けのマジック」であった。
彼のトリックは決して銃弾をまともには装填せずに、弾倉に仕込んだ蝋の弾丸をアシスタントが撃ち出したタイミングに合わせて空中を掴み、その手の中から弾丸を出すというものであったといわれている。
そして1918年の3月23日の夜、ロンドンのウッド・グリーン・エンパイア劇場のマジックショーの大トリに出てきたスーは、いつものように弾丸受けを披露した。
唯一いつもと違ったのは、アシスタントがきちんと弾丸を装填してしまったことだけであった。
こうして、どの中国人マジシャンよりも中国人マジシャンとして成功を収めたトリックの帝王は、弾丸をその肺で受け、翌日病院で死亡したのだった。
彼がステージで発した最後の言葉は「Oh my God. Something's happened. Lower the curtain.(何かが起きた、カーテンを下げてくれ)」紛れもない英語であり、彼が初めて披露した英語であった。
ちなみに、この弾丸受けのマジックは19世紀末までは世界各国で演じられており、20人以上のマジシャンたちが死亡した演目である。
日本でも明治時代に活躍した奇術師・中村小登久が、このマジックで左目を失明している。
果たして、そこまでの《不幸の歴史》を知るマジシャンたちを駆り立てるものはなんであったのだろうか?
終生トリックに魅入られたといえるウィリアム・エルスワース・ロビンソンの生涯は、その解答のひとつであろう。

( 写真はWikipedia Chung Ling Sooより使用。Public Domain)

3月24日の不幸

1918年
【事故死】チャン・リン・スー(Chung Ling Soo)【マジシャン/アメリカ合衆国】

20世紀初頭”謎の中国人マジシャンチャン・リン・スー”としてにヨーロッパで活躍したアメリカ人マジシャン。本名はウィリアム・エルスワース・ロビンソン。スコットランド生まれのアメリカ人の父親がマジシャンであったことから14歳の頃にはステージに上がり始め1900年頃にヨーロッパのエージェントが「ツアーに出演する中国人マジシャンを探している」という情報を聞き、自らが中国人”チャン・リン・スー”として生きることを決意。中国服と弁髪、顔は厚塗りのドーランで黄色人種になりすまし、以降、公の場では決して英語を話すことはなくなった。そして彼はヨーロッパでも最も収入が多いマジシャンにまで上り詰めた。1918年の3月23日の夜、ロンドンのウッド・グリーン・エンパイア劇場のマジックショーの大トリに出てきたスーは、いつものように弾丸受けを披露したが、アシスタントがきちんと弾丸を装填してしまったことで、銃弾が肺を直撃。翌日病院で死亡したのだった。彼がステージで発した最後の言葉は「Oh my God. Something’s happened. Lower the curtain.(何かが起きた、カーテンを下げてくれ)」という彼が初めて公に披露した英語であった。没年57歳。

1976年
【死去】E・H・シェパード(Ernest Howard Shepard)【挿絵画家・イラストレーター/イギリス】

現在はディズニーアニメの主要キャラクターとして知られるA・A・ミルンの世界的大ヒット児童小説『Winnie-the-Pooh(くまのプーさん)』の挿絵画家として知られる人物。元々は雑誌『パンチ』に連載をするマイナーな風刺画家のひとりであり、同じく同誌の連載作家であったミルンはもっと有名な画家に依頼をしたかったが、シェパードの作品を目にした瞬間、その仕上がりの素晴らしさに彼しかいないと確信したという。96歳没。

1980年
【暗殺】オスカル・ロメロ(Óscar Arnulfo Romero y Galdámez)【司祭/エルサルバドル】

ローマ留学後主にサンミゲルで活動したカトリック司祭であり、1977年2月23日からはサンサルバドルの大司教となり、当時のエクアドルを統治していたはアルトゥーロ・アルマンド・モリナ政権の暗殺やテロ、拷問、不正を黙認する方針に異を唱える活動を展開。1980年3月23日にサンサルバドル大聖堂で説法を終えた瞬間に銃殺された。没年62歳。後にその暗殺犯が2009年まで政権を握った国民共和同盟の創設者、ロベルト・ダビュイソン少佐であることが判明。その後行なわれた葬儀には25万人以上の民衆が訪れたが、その中でロメロの死を抗議する者たちは30〜50人ほどが国家宮殿の中からを始めとした射撃により虐殺された。死後35年経過した2015年5月23日にエルサルバドルにて列福され聖人に次ぐ福者となった。

1989年
【海難事故】「エクソンバルディーズ号原油流出事故」

米エクソン・モービル社のタンカー・エクソン・ヴァルディーズ号が、アラスカ湾のプリンス・ウィリアム湾近くの暗礁に乗り上げ座礁。1080万USガロンもの油が海に流出するという史上最大の海上環境破壊事故となった。事故の結果、海鳥、ラッコ、カワウソ、ゴマフアザラシ、ハゲワシ、シャチ、サケ、ニシン等多大な生態系に甚大な被害を出した。原因は深夜に引き継いだ船長の判断ミスと、三級航海士の人為的捜査ミスによるものとされ同社には多くの賠償金が科された。

2009年
【競技中事故死】辻昌建【プロボクサー】

インターハイベスト8、国体準優勝のアマチュアキャリアを経て2002年にプロデビューしたミニマム級のプロボクサー。2008年の日本タイトル挑戦権獲得トーナメントミニマム級で優勝し同級の日本チャンピオンへの挑戦権を獲得。2009年3月21日に行なわれた金光佑治との日本ミニマム級王座決定戦で激しい撃ち合いの末、最終10回にKO負け。試合終了直後にリング上で意識不明となり、そのまま急性硬膜下血腫として開頭手術となったが、意識が戻らないまま、3月24日に死亡。没年30歳。ちなみに勝利した金光も硬膜下血腫で引退となり、当日のレフェリングが後日問題化されることになった。

2015年
【航空事故】【自殺】「ジャーマンウイングス9525便墜落事故」

2015年3月24日にスペイン・バルセロナからドイツ・デュッセルドルフに向かうドイツの格安航空会社「ジャーマンウイングス」の定期便がフランス南東部アルプス山中に墜落し、乗客乗員150人の全員が死亡した航空事故。当初はテロの可能性も報じられたが、調査により、精神状態に異常を来した副操縦士のアンドレアス・ルビツ(27歳)による149人を巻き込んでの自殺であったと判明。メイン操縦士であった人物が操縦席を離れた際にコックピットを閉鎖し、自ら山腹へと急降下していった悲劇であった。ルビツはリスクが高い割に給与の低いLCCの雇用条件や失恋を気に病んでおり、視力の減退も重なって、医師からは搭乗資格を取り消されていたが、それを隠しての勤務を続けていたという。