『アムステルダムのスキポール空港に並べられたテネリフェ空港ジャンボ衝突事故の被害者の棺』写真=オランダ国立公文書館

1977年3月27日は、史上最悪の航空機事故として知られる「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」の起きた日である。
ニューヨークからカナリア諸島に向かってきたパンアメリカン航空のジャンボと、アムステルダムからカナリア諸島に向かってきたKLMオランダ航空のジャンボと、どちらも最終的な目的地はグラン・カナリア島のグラン・カナリア空港(現ラス・パルマス空港)という2機の旅客機が、経由地のスペイン領カナリア諸島のテネリフェ空港の滑走路で正面衝突し、583人が死亡(61人の負傷生存者)という有史以来最大の犠牲者を出す事件となった。
元々この2機がテネリフェ空港を経由したのは、目的地のグラン・カナリア空港に爆弾テロの予告が届いていたためで、その後で虚偽の予告であることが判明し、それぞれのスケジュールの遅れを取り戻すためにこの最悪の事件が引き起こされたといわれている。
事故責任はパンナム機からの離陸に滑走路を空けるように言われたが全速力で突っ込んだKLM機にあるとされ、原因は無線障害やパイロットの判断にあるとされている。
その結果滑走路内で両機は衝突し大爆発。
少し離陸したKLM機の乗員乗客は全員が死亡、生存者はすべてパンナム機の搭乗者だった。
当初はその責任を認めていなかったKLM側であったが最終的に責任を受け入れ、それぞれの被害者へ60,000ドルほどの賠償をし、慰霊塔や慰霊碑を建立、有史以来最多の被害者たちへの慰霊に努めている。

(画像はWikipedia Tenerife airport disasterより使用)

3月27日の不幸

1378年
【死去】グレゴリウス11世(Papa Gregorius XI)【ローマ教皇/イタリア】

14世紀後半のイタリアで第201代ローマ教皇(1370年〜1378年)となった人物。1370年フランス・アヴィニョンで即位、1377年にローマへ帰還。グレゴリウス11世で教皇のアヴィニョン捕囚の期間が終了した。1378年3月27日に死去。推定没年齢50歳。

1890年
【自殺】斉藤きち【芸者】

「唐人お吉」の名で知られる幕末から明治時代にかけて活躍した芸者。1855年に一族から離縁されたことをきっかけに芸者となりお吉と名乗る。1857年、初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが日米外交中に体調を崩した際、看護婦の斡旋を依頼したが、妾の斡旋依頼と間違われたことでハリスの元へ行くことに。1867年に芸者を辞め、髪結業を始めるも経営がうまくゆかず、再び芸者の世界へ。その後、小料理屋「安直楼」を開くがアルコール中毒のため廃業。数年間物乞いとして過ごした後、1890年3月27日に下田の稲生沢川門栗ヶ淵に投身自殺。没年48歳。

1952年
【死去】豊田喜一郎【経営者・技術者】

トヨタ自動車の創業者であり、日本の自動車産業のベースを築いた人物のひとり。静岡県敷知郡吉津村山口(現湖西市山口)生まれ。幼少の頃より、豊田自動織機創業者である父・佐吉の研究、製造の現場を見て育つ。東京帝国大学に入学後は機械工業を専攻し、卒業後豊田紡織に入社。紡績機の開発に携わり、翌年、紡織機事業視察のため欧米した際、欧米での自動車の普及率を目の当たりにし、1933年豊田自動織機製作所内に自動車研究室を新設。小型エンジンの開発に着手し、外国車に対抗できる国産車作りを目指した。1937年、トヨタ自動車工業株式会社を設立。その後、1949年の「ドッジ不況」による長引くストのため社長を辞任。その後すぐに朝鮮特需となり、経営陣への復帰が決まるも脳溢血により死去。没年58歳。2001年、死後49年後に豊田市の名誉市民に認定された。

1964年
【地震】【自然災害】「1964年アラスカ地震」

1964年3月27日、アメリカ・アラスカ州南西部プリンス・ウィリアム湾で発生した、アメリカ地震観測史上最大規模マグニチュード9.2の地震。この地震により起きた建物の倒壊や津波で131人が死亡。

1966年
【死去】黒田善太郎【実業家】

大手文具メーカー・コクヨの創業者として知られる明治時代の実業家。1905年に黒田表紙店を開業、1917年に「国誉」の商標を取得。1961年、社名を現在のコクヨへ変更。1966年3月27日、老衰により死去。没年87歳。

1968年
【怪死】【航空事故】ユーリ・ガガーリン(Yuri Alekseyevich Gagarin)【宇宙飛行士・軍人/ソ連】

1961年にボストーク1号に単身搭乗し、世界初の有人宇宙飛行に成功した宇宙飛行士。しかしその飛行はソ連政府側としてもかなりの危険性を孕んだままの見切り発車だったといわれ、帰還時は上空7,000メートルから宇宙船を飛び出してのパラシュートでの着地であったと後日明らかになった。さらに、飛行中に無線でガガーリンの大佐への昇進を伝えたのは、死亡する前に伝えておきたかったからだといわれている。帰還後は国民的英雄となり諸国を広告塔として飛び回ったガガーリンであるが、やがて酒に依存する生活となり、1961年には精神的な異常を来し自傷行為を行なっている。また、指導官として後続の飛行士育成に携わったが、1967年には親友のウラジーミル・コマロフが試験飛行を成功させないままに宇宙飛行に臨んだ際にはその危険性を察知し自らが代わりに乗り込もうとした(結果的に様々な事故が起きコマロフは死亡)。そして翌年3月27日、MiG-15UTIでの飛行中にキルジャチ付近で墜落事故を起こし、死亡。没年34歳。教官同乗という万全の体制であっただけに、国内外から陰謀説が流れたが、当時のソ連国内の秘密主義体制下であるために真相は明らかになっていない。

1972年
【死去】マウリッツ・エッシャー(Maurits Cornelis Escher)【版画家/オランダ】

20世紀オランダを代表する版画家で主にトロンプ・ルイユ(だまし絵)のような作品で知られる人物。大学で絵や木版画の技術を学んだ後、1922年にスペインを旅行、アルハンブラ宮殿を視察し大きな影響を受ける。1930年、風景画『カストロバルバ』を制作。1935年、オランダの郵便切手をデザイン。1930年代後半から『メタモルフォーシスI』(1937年)、『昼と夜』『循環』(ともに1938年)といった幾何学模様を用いた作品を発表。1950年代から『凸面と凹面』(1955年)『物見の塔』(1958年)といった代表作を発表し主にアメリカで支持されることに。晩年はガンとの闘病生活を送りながら1969年に遺作となる『蛇』を発表。1972年3月27日、同病により死去。没年73歳。

1977年
【航空事故】「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」

ニューヨークからカナリア諸島に向かってきたパンアメリカン航空のジャンボと、アムステルダムからカナリア諸島に向かってきたKLMオランダ航空のジャンボと、どちらも最終的な目的地はグラン・カナリア島のグラン・カナリア空港(現ラス・パルマス空港)という2機の旅客機が、経由地のスペイン領カナリア諸島のテネリフェ空港の滑走路で正面衝突し、583人が死亡、61人の負傷生存者という有史以来最大の犠牲者を出した航空事故。となった。虚偽の爆弾テロの予告で発生したスケジュールの遅れを取り戻すために起きたといわれ、滑走路内で両機は衝突し大爆発。少し離陸したKLM機の乗員乗客は全員が死亡、生存者はすべてパンナム機の搭乗者だった。事故の責任はパンナム機からの離陸に滑走路を空けるように言われたが全速力で突っ込んだKLM機にあると言われ、原因は無線障害やパイロットの判断にあるとされている。

1998年
【死去】フェルディナント・アントン・エルンスト・ポルシェ(Ferdinand Anton Ernst Porsche)【自動車技術者・デザイナー・実業家/オーストリア】

ポルシェの創設者フェルディナント・ポルシェの長男として生まれ、1928年にロバート・ボッシュに入社。1931年、ポルシェの自動車設計事務所に入社しテストドライバーを担当。1939年、ツッフェンハウゼン工場・工場長代理に就任。「第二次世界大戦」中はヒトラー政権下で戦車などの兵器を開発。ドイツ敗戦後の1945年に戦争犯罪人としてフランスで逮捕され、翌年に釈放される。1951年、父・フェルディナントが死去するとポルシェの代表へ就任。1989年、引退しポルシェ名誉会長へ。1998年3月27日、老衰により死去。没年88歳。

1999年
【自殺】沖田浩之【俳優・歌手】

人気テレビドラマ『3年B組金八先生』の第2シリーズで松浦悟役やデビュー曲『E気持』(オリコンチャート最高8位)で人気を博したアイドル歌手。その後青山学院大学経済学部経済学科を経て俳優活動に専念したが、デビュー時の人気には及ぶべくもないままに1999年3月27日に自宅で首吊り自殺。没年36歳。父、祖父も自殺しており、沖田の死後兄も自殺をしたという。

2002年
【死去】ビリー・ワイルダー(Billy Wilder)【映画監督・脚本家/オーストリア・アメリカ合衆国】

ドイツで脚本家として活躍後、ナチスドイツのユダヤ人迫害を逃れフランスに亡命。監督デビュー後アメリカに亡命しハリウッドデビュー。その後は代表作『サンセット大通り』『麗しのサブリナ』『 七年目の浮気』『昼下りの情事』『お熱いのがお好き』等の大ヒット映画を連発。特に1960年の『アパートの鍵貸します』ではアカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞を同時受賞し、史上唯一の3つのオスカーを同時受賞した人物となった。肺炎で95歳没。

2004年
【死去】安藤満【プロ雀士】

昭和から平成にかけて活躍した日本プロ麻雀連盟所属のプロ雀士、独自の”亜空間殺法”で知られる人物。『むこうぶち』など麻雀漫画の原案も多く手がけ麻雀普及に務める。1989年にガンを発病するも、2003年「秋の天王戦」で優勝。2004年3月27日、食道ガンで死去。没年55歳。

2007年
【死去】植木等【コメディアン・俳優】

いくつかのバンドを経て「クレージーキャッツ」に移籍しボーカル・ギターを担当。コメディ路線でジャズ喫茶で爆発的人気を獲得し、『おとなの漫画』『シャボン玉ホリデー』というテレビ黎明期のバラエティ番組で国民的人気を博した。植木自身も「お呼びでない? お呼びでない(笑)。お呼びでないね。こりゃまた失礼いたしました!」という定番ギャグで大人気コメディアンに。クレージーキャッツ主演の映画も数多く制作され、「無責任シリーズ」「日本一シリーズ」と呼ばれる一連の作品の主演で”無責任男”としてのキャラクターを確立。1961年の大ヒット曲『スーダラ節』とともに植木の脳天気な芸風を印象づけた。しかし実際は真宗大谷派常念寺の住職であった父を持ち物静かな人となりで知られ、無責任とはほど遠い人物であった。植木自身も僧侶としての修行を積み父の不在時には檀家を回った経験もあるため、1993年にハナ肇が亡くなった際には読経を上げたという。1980年後半からは俳優に転身、黒澤明監督作品『乱』や石井聰亙監督作品『逆噴射家族』等で印象的な演技を披露した。晩年は肺気腫と前立腺ガンを患いつつ俳優業を続け、2007年3月27日に呼吸不全で死去。没年80歳。生前の植木の要望で密葬として行なわれた葬儀には、クレージーキャッツのメンバーであった谷啓、犬塚弘、桜井センリ、そして植木の付き人であった小松政夫等が参列した。

2007年
【死去】山本俊彦 【ミュージシャン・プロデューサー】

フォークグループ「赤い鳥」の解散後、メンバーの山本潤子(旧姓・新居潤子。1973年4月に山本と結婚)、大川茂とともに「ハイ・ファイ・セット」を結成。1975年に『卒業写真』と同名アルバムでレコード・デビューし、その後の『冷たい雨』『朝陽の中で微笑んで』等の、荒井(現・松任谷)由実作の曲で多くのヒットを記録した。1980年に活動停止するも1年後に活動再開。1992年10月に再び活動休止し1994年9月に解散した。解散後はプロデューサーとして活動したが虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅で死亡。没年67歳。

2013年
【死去】坂口良子【女優】

1971年にミス・セブンティーンコンテストで優勝し、翌年のドラマ『アイちゃんが行く!』でアイドル女優として主演デビュー。ドラマ『前略おふくろ様』『池中玄太80キロ』映画『犬神家の一族』等のヒット作品への出演で国民的人気を誇った。晩年は腸閉塞、肺炎、インフルエンザ等を患い静養していたが、2013年3月27日午前3時40分、横行結腸ガンと肺炎で死亡した。没年57歳。その死に際し西田敏行は「池中玄太は号泣しています」とコメントを発表。タレントとしてデビューし、生前はバラエティ番組などで共演もした娘の坂口杏里はその死後AV女優となって活動中。

2015年
【集団窃盗事件】「本庄第一高等学校サッカー部集団万引き事件」

韓国の高校との親善試合のために訪韓していた、本庄第一高等学校の男子生徒22名が、ソウル市のショッピングモール「ミリオレ」で集団万引きを起こした事件。犯行は帰国前の自由時間中に行われ、被害額は日本円にして約28万円相当であった。動機は「友人らへの韓国土産のつもりだった」と供述。また、検挙後、6人の生徒が事件に関与していたことが新たに判明し、万引きを行なった生徒は合計29名。この事件により同校サッカー部は関東大会県予選とインターハイ予選を辞退。万引きを行なった生徒は無期限停学以上の処分、監督であった教諭は懲戒解雇、引率の教諭は定職1カ月となった。