4月21日の不幸
- 1591年
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【処刑】【自殺】【切腹】千利休【商人・茶人】
堺の商人から身を起こし、わび茶を完成させただけにとどまらず、多くの大名を弟子に持ち、天下人といわれた豊臣秀吉に匹敵するほどの国政への影響力を持つまでに至ったといわれる茶道界の巨人。1591年4月21日に秀吉から切腹を命じられたが、その原因は定かではない。切腹の際には弟子の大名たちの反乱を恐れた秀吉は、多くの兵士たちで周りを囲ませたという。没年70歳。
- 1612年
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【処刑】岡本大八【武将】
安土桃山時代の武将。本多正純の家臣として、有馬晴信のポルトガル船マードレ・デ・デウス号攻撃を監督。徳川家康に恩賞を斡旋すると偽り有馬から多額の賄賂をかすめ取った詐欺事件「岡本大八事件」の結果、市中引き回しの上、火あぶりの刑に。
- 1650年
- 【急死】柳生十兵衛(三厳)【剣豪・旗本】徳川家光に使えた江戸時代の剣豪、兵法家。著書に『月之抄』等。鷹狩りの際に急死。没年43歳。
- 1701年
- 【処刑】【自殺】浅野内匠頭(長矩)【播磨赤穂藩主】「忠臣蔵」「赤穂事件」で知られる第三代赤穂藩主。吉良上野介(義央)に斬りかかったことを咎められて、即日死刑の処断が下った。吉良がしてきた度重なる嫌がらせへの恨みからと言われている。没年33歳。
- 1910年
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【死去】マーク・トウェイン(Mark Twain)【小説家/アメリカ合衆国】
『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィン』で知られるアメリカ文学界の巨人。生年である1835年はハレー彗星が観測された年であるが、そのことから「ハレー彗星と共に去るだろう」と発言していたと言われるが、実際に心臓麻痺で死亡したのが74年ぶりにハレー彗星が観測された1910年4月21日だった。没年74歳。
- 1922年
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【死去】アレッサンドロ・モレスキ(Alessandro Moreschi)【カストラート・声楽家/イタリア】
“L’angelo di Roma(ローマの天使)”と呼ばれた記録上最後のカストラート。1865年、7歳頃に去勢手術を行ない、15歳になる直前から才能を見出され、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂聖歌隊のソプラノとして採用されたモレスキは独唱を任され、イタリア王国初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の葬儀で歌うなど、華々しい活躍を見せた。同時代を生きたカストラートでありイタリア随一の声楽教師といわれたドメニコ・ムスタファによりシスティーナ礼拝堂聖歌隊の第一ソプラノへ任命され、当代一の美声を誇るカストラートとして、歴史にその名を飾った。晩年は指導者としても活動しながら1912年に引退、30年間の年金取得の資格を取ったが、1922年に肺炎で死亡した。63歳没。
- 1945年
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【自殺】ヴァルター・モーデル(Otto Moritz Walter Model)【軍人/ドイツ】
ドイツの軍人、陸軍元帥。ナチス政権では”ヒトラーの火消屋”の異名をとった人物。1909年に軍に入隊、第一次世界大戦では歩兵士官として従軍し少将に昇進。第二次大戦はポーランド侵攻、西方電撃戦で参謀長を勤め、1944年には元帥に就任。第二次大戦中は多くの武勲勲章を授与されている。1945年4月21日、連合軍により包囲された際に捕虜となることをよしとせず、デュースブルク近郊の森で拳銃自殺。没年54歳。
- 2003年
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【死去】ニーナ・シモン(Nina Simone)【歌手/アメリカ合衆国】
20世紀のアメリカを代表する黒人女性のジャズ・シンガー。1958年、ベツレヘム・レコードからアルバム『Little Girl Blue』でデビュー。このアルバムに収録されているジョージ・ガーシュウィンのカバー曲『I Loves You Porgy』がアメリカでトップ40入りした。また、同アルバムにあるジャズのスタンダード・ナンバー『My Baby Just Cares for Me』は1987年にシャネルのCMソングとなり、イギリスでトップ10入りを果たした。ベツレヘム・レコード後はコルピックス、フィリップス、RCAビクターへと移り、1959年から1974年の15年間に25枚以上のアルバムをリリースしている。 2003年4月21日、乳ガンにより死去。没年70歳。
- 2004年
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【死去】藤田田【実業家】
日本マクドナルド、日本トイザラス創業者。大阪府大阪市淀川区出身。1950年の大学在学中に藤田商店を設立。その後、1971年に日本マクドナルド、1989年に日本トイザらスを設立。1986年に藍綬褒章受賞。1999年に第24回経済界大賞敢闘賞受賞。2004年4月21日、心不全のため死去。没年78歳。
- 2006年
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【死去】テレ・サンターナ(Telê Santana da Silva)【サッカー選手・指導者/ブラジル】
1982年開催のスペイン・ワールドカップ本大会で監督としてブラジル代表を率い、ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾからなる”黄金のカルテット”を中心にした超攻撃サッカーで、ブラジル国民ならず世界中のサッカーファンを魅了した名監督(結果は2次リーグ敗退)。その後もブラジル代表監督、サンパウロFC他国内外の様々なクラブチームの監督として活躍したブラジルきっての名将。現役時代も右ウイングとしてブラジル代表に選出された名選手だった。2003年には虚血の末に左足の膝から下を切断するなどの苦難の末、2006年に腸感染症で死去。74歳没。
- 2007年
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【急死】パリー・オブライエン(William Patrick “Parry” O’Brien)【陸上競技選手/アメリカ合衆国】
アメリカの元砲丸投げ選手でオリンピック・メダリスト。オブライエンが生み出したグライド動作を用いた投法は「オブライエン投法」と呼ばれ、現在では標準的な投法となっている。1952年のヘルシンキオリンピックから4大会連続出場を果たし、通算で金メダル2つ、銀メダル1つを獲得した。1953年に18.00メートルの世界新記録を樹立後、1959年までに世界記録を15回更新。1959年にジェームスサリバン賞受賞、1966年に引退。2007年4月21日、マスターズ水泳に参加中、心臓発作で逝去。没年75歳。
- 2010年
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【死去】フアン・アントニオ・サマランチ(Juan Antonio Samaranch Torelló/スペイン)【ジャーナリスト・活動家・実業家】
スポーツジャーナリスト出身のIOC第7代会長。自身の出身地であるバルセロナ・オリンピックではアメリカのバスケットボール・チーム、通称”ドリーム・チーム”を実現するなどして、オリンピックの商業化、プロ選手参加に大きく寄与したIOCの第7代会長。心臓疾患で死去。没年89歳。
- 2011年
- 【死去】田中好子【女優・歌手】「スクールメイツ」のメンバーとして芸能活動をスタートし、1972年に伊藤蘭と藤村美樹と国民的アイドルグループとなった「キャンディーズ」を結成。愛称はスー。代表曲に『年下の男の子』『春一番』等。ヒット連発の人気絶頂の中、突然の解散。その後は女優として幅広い活動を展開。しかし1992年に乳ガンを患い、手術の末に一時は健康を取り戻したかのようにみえていたが、以降19年間、再発との闘病を続けていたという。没年55歳。
- 2012年
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【怪死】馬場育三(IKÜZÖNE)【ギタリスト・ベーシスト】
バンド「Dragon Ash」のメンバーとして活躍。不慮の死を遂げたミュージシャン、hideの刺青を入れるなど崇拝していたことでも知られる。急性心不全で突然死。没年46歳。
- 2016年
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【薬物過剰摂取】プリンス(Prince)【ミュージシャン/アメリカ合衆国】
本名Prince Rogers Nelson。ジャズ・ピアニストの実父、ジョン・L・ネルソンの芸名プリンス・ロジャーにちなみ名付けられた。1978年のデビュー以来、人種や性別を超越した過剰にセクシュアルな世界観を持ったアーティストとして知られ、卑猥ともとれる歌詞の内容や衣装の露骨さで社会的に物議を醸すことも多かったプリンスであるが、『Purple Rain』をはじめとした数多くのヒット曲で世界的な人気を獲得した。1994年にアーティスト・プリンスの死をうたい、その後は自らが考案したマーク”Love Symbol”なる音読不能なマークによる名義で音楽活動を続け、その間は「the Artist Formerly Known As Prince」「the Artist」等という名称で活動。2000年に再びプリンス名義に戻し死亡する前年まで精力的に活動したが、2016年4月21日に、スタジオ内のエレベーターで死亡しているところを発見された。死因は鎮痛剤フェンタニルの過剰摂取。没年57歳。死後の2016年6月にミネソタ州知事・マーク・デイトンが、誕生日である6月7日を「プリンス・デー」と定めた。