『畠山勇子のポートレート『護法の神 児島惟謙』(修文館/1926年)掲載』

1891年5月20日は、京都の魚問屋で奉公をしていた畠山勇子が、5月11日に発生したロシア帝国皇太子ニコライの暗殺未遂事件「大津事件」による国難を案じ、皇太子宛の謝罪の遺書を残し自殺を遂げた日である。
滋賀県滋賀郡大津町で警備にについていた警察官・津田三蔵がロシア皇太子のニコライに斬りかかったことは、当時まだ国力の乏しかった明治期の日本にとっては一大事であり、明治天皇もすぐさま京都まで見舞いに赴くほどであった。
しかしその甲斐もなく、ニコライは東京訪問をキャンセルし、ロシアへと帰ろうとしていた5月20日に、一介の平民である畠山は「天皇陛下の面目が立たない」と「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」というそれぞれに宛てた遺書を京都府庁に投げ入れ、その場で首と胸をカミソリで斬りつけて自害を遂げたのであった。
世間ではロシア帝国が報復のため攻めてくると騒ぎになっていただけに、この自害は「烈女勇子」の名で大きく報じられた。
元々、近隣では畠山は過剰に政治に熱狂していた変わり者とみられていたという。
彼女の死がロシアまで伝わったかどうかは定かではないが、祖国を守ろうとして果てたその激烈な人生を、我々は記憶しなければならないだろう。

(画像はWikipedia 畠山勇子より。Public Domain)

5月20日の不幸

1277年
【事故死】ヨハネス21世(Ioannes XXI)【ローマ教皇/ポルトガル】

13世紀イタリアでポルトガル出身で初の教皇第187代ローマ教皇(1276年〜1277年)となった人物。ポルトガルのギマランイス修道院長、第184代ローマ教皇グレゴリウス10世の主治医を経て1276年にローマ教皇に即位。即位中の1277年5月12日に別荘で就寝中に手抜き工事が原因で屋根が崩落し重症を負い同月20日に死去。推定没年齢62歳。

1506年
【死去】クリストファー・コロンブス(Cristoforo Colombo)【探検家・航海者・奴隷商人/イタリア】

16世紀イタリアの探検家・航海者および奴隷商人で白人として初めてアメリカ海域へ到達したことで知られる人物。10代から父親の仕事を手伝うために乗船、1476年にジェノヴァ商人団に雇われ商船隊に参加。1477年からポルトガルへ移住し地図作成や売買を行ない、同年にアイルランド、アイスランドへ航海。その後スペインへ移住し西廻りの航海への経費集めを行ない1492年にスペイン王室とサンタ・フェ契約を締結。この契約により同年にインドを目指しスペインを出航、西インド諸島のサン・サルバドル島、キューバ島、イスパニョーラ島を発見。1493年にスペインへ帰国し同年にドミニカ島へ向かい先住民族の虐殺や奴隷商人を行なう。1500年にドミニカ島で反乱が起き本国へ送還、すべての地位を剥奪、帰国後も航海を企てるも遭難し失敗、1506年5月20日に病で死去。推定没年齢55歳。

1891年
【自殺】畠山勇子【魚問屋奉公】

5月11日に発生したロシア帝国皇太子ニコライの暗殺未遂事件「大津事件」による国難を案じ皇太子宛の謝罪の遺書を残し自殺を遂げた女性。東京訪問をキャンセルし、ニコライが帰国しようとしていた5月20日に、「天皇陛下の面目が立たない」と「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」というそれぞれに宛てた遺書を京都府庁に投げ入れ、その場で首と胸をカミソリで斬りつけて自害を遂げたのであった。没年25歳。

1896年
【落下事故】「オペラ座シャンデリア落下事故」

1896年5月20日、フランス・パリのガルニエ宮(オペラ座)で6トンのシャンデリアが天井から客席へ落下。この事故により観客1人が死亡。1909年に発表したガストン・ルルーの小説『オペラ座の怪人』はこの事故から着想を得ている。

1945年
【戦死】【夭折】景浦將【プロ野球選手】

水島新司の大ヒット漫画『あぶさん』のモデルになったとも言われる強肩強打の大スターで、大阪タイガースで活躍したプロ野球選手。あの伝説の投手=沢村栄治のライバルでもあった。4番サードで投手も務めるという二刀流で、最優秀防御率と首位打者を同時に受賞した唯一のプロ野球選手である。2度の招集で戦地に赴くようになってからは手榴弾の投擲で肩を痛め強肩も失われていった。フィリピン・ルソン島のカラングランで戦死。没年29歳。

1956年
【レッドウィング作戦】【核実験】「チェロキー実験(レッドウィング作戦)」

1956年5月20日にアメリカがビキニ環礁で初の水爆投下実験を行なう。

1965年
【航空事故】「パキスタン国際航空705便墜落事故」

1965年5月20日、パキスタン・カラチ空港からイギリス・ヒースロー空港へ向かっていたパキスタン国際航空705便(ボーイング720B)が経由地のエジプト・カイロ空港へ着陸進入を行なうも空港手前で急降下し墜落。この事故により乗員乗客合わせた127人中121人が死亡。事故原因は未だ判明していない。

1973年
【事故死】【夭逝】ヤルノ・サーリネン(Jarno Saarinen)【バイクレーサー/フィンランド】

1970年代に活躍したフィンランドのバイクレーサー。アイスレースのライダーからロードレースに転向し1970年に初出場。1972年に世界GP250ccクラスのチャンピオンとなり世界GPで活躍。イタリアGP250ccクラスに出場中の1973年5月20日に多重衝突事故に遭い死去。没年27歳。

1984年
【引退】「高見山引退」

夏場所開催中の1984年5月20日にアメリカ・マウイ島出身で初の外国人であった高砂部屋の関取・高見山が引退。生涯戦歴812勝842敗22休(122場所)での引退となった。

1989年
【事故死】マイク・ラインバック(Mike Reinbach)【プロ野球選手/アメリカ合衆国】

20世紀アメリカのプロ野球選手。1970年にボルチモア・オリオールズと契約。1972年に3AサザンリーグのMVPに選出にされる。1976年に阪神タイガースへ入団・来日し“マイク”の愛称で親しまれる。1980年に同団体を退団し帰国後はビジネスマンとして生活。1989年5月20日に車を運転中に崖下へ転落し死去。没年39歳。

1999年
【死去】由利徹【コメディアン】

南利明・八波むと志とともに結成した『脱線トリオ』で活躍。解散後は単独で活動。代表的なギャグ「おしゃまんべ」「チンチロリンのカックン」等でお茶の間の人気者に。弟子にたこ八郎などがいる。肝臓ガンで死去。没年78歳。

2008年
【急死】【夭折】ジョシュア【ファッションモデル】

アメリカ生まれのハーフのファッションモデル。ジョシュア・新村。2004年6月に同じくモデルの土屋アンナと結婚し一児をもうけたことでも知られるが、2006年7月4日に離婚。心不全で25歳没。タレントのこずえ鈴の実弟としても知られる。

2009年
【自殺】ルーシー・ゴードン(Lucy Gordon)【女優・モデル/イギリス】

モデル出身の女優。映画『PERFUME パフューム』『スパイダーマン3』などで活躍。遺作の映画『ゲンスブールと女たち』では準主役のジェーン・バーキン役を務めた。その撮影直後、撮影監督のジェローム・アルメラと同棲していたパリの自宅で首吊り自殺をした。遺書には自らの不動産の分配法と、両親へのメッセージが書かれていた。没年28歳。

2010年
【不祥事】【大相撲野球賭博問題】「大関琴光喜・野球賭博関与」

夏場所開催中の2010年5月20日、この日発売の『週刊新潮』で現役力士で大関であった琴光喜が暴力団によるプロ野球を対象とした野球賭博に関与したことが報じられる。

2011年
【事故死】ランディ・サベージ(”Macho Man” Randy Savage)【プロレスラー/アメリカ合衆国】

“マッチョマン”のアダ名でアメリカのメジャー団体WWF(現WWE)やWCWで活躍したトップレスラー。必殺技はトップロープからのダイビング・エルボー・ドロップ。フロリダ州の高速道路を走行中に心臓発作を起こして木に激突死。没年58歳。

2012年
【死去】ロビン・ギブ(Robin Gibb)【ミュージシャン/イギリス】

兄バリーと双子の弟モーリスとともに3人の兄弟が中心となって結成したボーカルユニット「ビージーズ」のメインボーカルとして活躍した世界的なミュージシャン。英領マン島の出身者としても知られる。「ビージーズ」のレコード売り上げは全世界で1億2,000万枚以上といわれ、『How Deep Is Your Love』『Stayin’ Alive』『Night Fever』『First Of May』等の大ヒット曲は世界中で今もカバーされている。2010年10月、ベルギーでのコンサート中に腸閉塞で倒れ、2011年10月には結腸ガンと診断された。最終的には肺炎も併発し昏睡状態となり、2012年5月20日に62歳没。

2013年
【自然災害】「2013年ムーア竜巻」

2013年5月20日にアメリカ・オクラホマ州で最高レベルのEF5に達する巨大竜巻が発生。この竜巻によりオクラホマ州中央部、オクラホマシティ南郊のムーアが被害に遭い24人が死亡、240人が負傷。

2013年
【病死】レイ・マンザレク(Raymond Daniel Manczarek)【ミュージシャン・オルガニスト・映画監督/アメリカ合衆国】

アメリカのロック・バンド「The Doors」のオルガニスト。ロック・バンド内におけるキーボーディストの地位を確立させたひとり。シカゴ生まれ。カリフォルニア大学ロス校(UCLA)在学中の1965年に、ジム・モリソンと出会い「The Doors」を結成。この頃、同期にはフランシス・F・コッポラも在籍しており、後に映画『地獄の黙示録』の挿入歌として「The Doors」の『The End』が使われることとなる。マンザレクの名を一躍有名にしたきっかけとなったのは、1967年にリリースされた第2弾シングル『Light My Fire』でのオルガンフレーズである。1971年にジム・モリソンが死去してからもバンドを続け、1972年に「The Doors」は解散。その後もミュージシャン、小説家、映画監督など亡くなる直前まで活躍するも、2013年、ドイツのローゼンハイムにて肝外胆管ガンのため死去。没年74歳。

2015年
【死去】片平巧【オートレース選手】

優勝回数通算80回、年間最多優勝選手2回を誇る船橋オートレース場所属のオートレーサー。1985年に船橋オートレース場第19期生として登録。1987年、『第9回さざんか杯争奪戦』優勝。その後も優勝を重ね、1998年に史上初のSG6冠グランドスラムを果たす(SGとはスーパーグレードの略称、オートレース界において最高位に格付けされているレースのこと)。2009年には史上18人目の通算1000勝を達成。2015年5月20日に死去しているが、直前の5月10日までレースに出場していた。没年49歳。

2019年
【死去】降旗康男【映画監督】

昭和に活躍した映画監督で主に高倉健との任侠映画で知られる人物。祖父は政治家の降旗元太郎、父は同じく政治家の降旗徳弥という政治家一家に生まれ、東京大学卒業後の1957年に東映へ入社。その後、映画監督・家城巳代治の下で助監督を務める。1966年に『非行少女ヨーコ』で監督デビュー。以後『ギャングの帝王』(1967年)網走番外地シリーズの『獄中の顔役』(1968年)といった任侠映画を主に手掛けることに。その後フリーとなり『赤いシリーズ』といったテレビ映画を撮影。1978年に『冬の華』で東映へ復帰。1999年に『鉄道員』で日本アカデミー賞監督賞・脚本賞を受賞。2002年に紫綬褒章、2008年に旭日小綬章を受章。晩年まで映画監督として活躍し
2016年にパーキンソン病を発症し療養生活へ。2019年5月20日に肺炎で死去。没年84歳。

2019年
【死去】ニキ・ラウダ(Niki Lauda)【レーシングドライバー・実業家/オーストラリア】

1970年代から1980年代にかけて活躍した“不死鳥”“コンピューター”の異名を持つオーストラリアのF1ドライバー。資産家の家に生まれ、1966年にドイツグランプリを観戦したことでドライバーになることを決意。その後、欧州F2選手権などで活躍し1971年にマーチからF1デビュー。1973年にBRM、翌1974年にフェラーリへ移籍。同年に参加したレースで2勝・9ポールポジションを獲得。1976年にドイツグランプリ出場中に事故に遭い大怪我を負うも事故後6週間でレース復帰、同年にF1ワールドチャンピオンとなる。1979年に引退を発表するも1981年に復帰。1985年に再び引退し以後はフェラーリといったF1チームの役職に就任。1991年に経営していたラウダ航空で「ラウダ航空004便墜落事故」が起こり経営権をオーストリア航空に譲渡。晩年までF1チームの役職を歴任し続け2019年5月20日に死去。没年70歳。